2023年10月26日木曜日

解体寸前のスコア

  手元にあるアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲のスコアがいよいよ解体寸前に。そこに書き込まれている購入日を見ると、「1983. 6. 4」とあった。つまり、今からちょうど40年前のことになる。これでは解体しても仕方がない……いやいや、そんなことはない。それよりも前に購っている日本の楽譜は今でも全く問題ないのだから。ベルクの発行元であるUniversal社の製本が日本のものに比べて雑だったのである。

 まあ、解体しても使えなくはないので、もうしばらくはこれを持ち続けることにしよう。だが、いずれは買い替えねばなるまい。同曲は現在、もう少し大きな判型で印刷されており、その方が格段に読みやすいからだ。歳を取り、だんだん小さな字や音符を読むのが辛くなってきたわけである。まあ、仕方があるまい。 

 では、耳は? こちらも昔に比べれば何かしら衰えているはいることだろう。が、それはあくまでも小さな音や高い音が聞こえにくくなった(という自覚はあまりないのだが……)であろうということであって、音楽を聴く耳は若い頃に比べて精緻になっているはずだ(と思いたい……)。

 

 ところで、件の協奏曲を知った1983年は私は17歳になる年だったが、今年17歳の若者が同曲を知ったとすれば、それは88年前に生まれた作品だということになる。では、17歳当時の私にとって88年前の作品といえば何か。たとえば、ブラームス晩年の作品などがそうだ。それはもはや「古の音楽」だったわけだが、してみると、今の若者にとってはベルクもそうなのだろうか。 それとも、そのようには聞こえないのだろうか。ちょっと尋ねてみたい気がする。

2023年10月22日日曜日

メモ(103)

  日本の洋楽受容において「日本語」は創作と演奏の両面でいわば障壁となっていたし、今でも少なからずそうだろう。このことをすべて否定的にとらえる必要はないし、そこに肯定的な意味も見いだせることもあるだろうにしても、とにかく、今や冷静に検証されるべき時が来たように思われる。

2023年10月17日火曜日

クレンペラーのストラヴィンスキー

  オットー・クレンペラーが指揮したストラヴィンスキーの《3楽章の交響曲》を久しぶりに聴いてみた。これがまた何ともすばらしい。今まで聴いた中で最高ランクの演奏である。では、何がすばらしいのか。それは音楽の軽やかさと響きの透明さである。「中庸な表現」と言い換えてもよい(この点でたいていの指揮者は「やりすぎ」か「やらなさすぎ」だ)。もちろん、だからといって、緊迫感にも欠けていない。
 クレンペラーとストラヴィンスキーは全くの同時代人であり、その時代の感覚を共有している。また、前者は作曲も手がけ、「創造」のなんたるかもわかっており、演奏をたんなる「再現」だとは考えていない。
 もちろん、クレンペラーが指揮したドイツ、オーストリアの古典、あるいはマーラーなども見事だ。が、それ以上に私はストラヴィンスキーの演奏に心惹かれる。ああ、それなのに……クレンペラーが遺してくれた録音は数少ない。残念至極。

2023年10月12日木曜日

《ナゼルの夜会》の標題の訳しにくさ

  プーランクの佳品、《ナゼルの夜会》はなかかなにとらえどころのない曲集であるが、そこが魅力的でもある。全11曲中、「変奏」と銘打たれた8曲に意味深な標題が付けられている。それだけにうまく訳するのが難しい。

 たとえば、変奏1Le comble de la distinction〉は「分別の極み」と訳されることがあるが、distinctionには気品、洗練、優雅という意味もあり(こちらの方だと解して、「やんごとなさ」という訳語をあてる場合もあるようだが、これはちょっとやりすぎかもしれない)、こちらでも意味は十分に通る。だが、「分別」と訳す場合とでは作品解釈はおよそ異なったものにならざるをえない(私は「分別」はたぶん誤訳だと思うが、そう言い切るだけの自信はない)。

 また、変奏4La suite dans les idées〉は「思索の続き」と訳されることもあるが、これは誤訳であろう。なるほど、suiteには「続き」という意味はあるが、もし、「~の続き」という意味になるのならば、前置詞はdansではなくde(それゆえ、ここでは定冠詞lesと融合してdes)になるのではないか? となると、このsuiteは「一貫性」の意味だと解する方が適切であろう(CollinsLe Robert French Dictionaryを見ると、suiteの訳語の1つとしてcoherenceをあげており、次のような例文があげられている:il y a beaucoup de suite dans son raisonnement.)。それゆえ、曲名を「一途」と訳す人もいるようだが、これはわかる(が、「一貫性」と「一途」とでは些かニュアンスが違っているような気もする)。

 変奏8L'alerte vieillesse〉は「老いの警報」と訳されることがあるが、これもどうだろう? その場合、alerteを名詞と取っているわけだが(同じ綴りの形容詞の場合には「[年の割には]機敏な、すばしっこい」とか「生き生きした」という意味)と名詞の両方があるが、意味は全く異なる)、そうなると、vieillesseという名詞はどうすればよいのか? その点、「年をとっても明るく元気」という少し盛りすぎだが、まあ、訳語としては理解できる。

 かく言う私もフランス語の微妙なニュアンスがわかるわけではない。それゆえ、この《ナゼル》の標題については音楽に詳しいフランス文学専攻者がきちんと訳し直してくれれば、この曲集を取り上げるピアニストにとっても、聴き手にとってもありがたい。

2023年10月3日火曜日

ライリーが日本在住だとは

  私はいわゆるミニマル・ミュージックを基本的には好まない。とりわけ、スティーヴ・ライヒとフィリップ・グラスの音楽は耐えがたい。が、好ましく感じるものもある。たとえば、テリー・ライリーの音楽やシメオン・テン・ホルトの《カント・オスティナート》などがそうだ。私の好き嫌いを分ける点は「押しつけがましさ」や「暴力性」である。ライヒらの音楽には私はそれを強烈に感じる一方、ライリーの音楽には感じず、むしろ安らぎを覚える(もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎない。ライヒらの音楽を好む人たちはこれとは違った聴き方をしていることであろうし、それはそれで大いにけっこうなことだと思う)。それゆえ、時折、後者らの音楽を聴きたくなるわけだ。

 そのライリーが現在日本在住だとは知らなかった。それにはコロナが関係していたとか(https://tower.jp/article/feature_item/2023/09/05/1110)。つまり、「ご縁」があったわけだ。ならば関西でも演奏会をしてくれないかなあ。

 

 こもっとも: https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f4b13f18d1907d81d0b0e0f3246461cd7506dee2

2023年10月2日月曜日

田隅靖子 ピアノ・リサイタル~ピュイグ=ロジェ先生の想い出に~

  珍しくも2日続けて演奏会に(投稿は深夜12時すぎなので日付は2日だが、演奏会は1日のことである)。しかも、奇しくも会場も同じ。たぶん、こんなことはもう二度とあるまい(と思うほどに、私は出不精である)。その演奏会は「田隅靖子 ピアノ・リサイタル~ピュイグロジェ先生の想い出に~」(於:京都コンサートホール、小ホール)。演目は次の通り:

 

フォーレ:ノクターン第1番 作品33-1

フランク:プレリュード、フーガと変奏曲 作品18

サン=サーンス:アレグロ アパショナート 作品70

オネゲル:3つの小品

 

ドビュッシー(カプレ編曲):春のロンド(2台ピアノ)

ラヴェル:ラ ヴァルス(2台ピアノ)

*[共演(第2ピアノ)]大谷正和

 

 当日のプログラムノートによれば、田隅先生は「関西日仏会館で1979年に来日間もないアンリエット・ピュイグ=ロジェ先生のレッスンを初めて受け」、以来、「お宅へレッスンを受けに、10年あまり毎月京都から通っていた」とのこと(レッスンで取り上げられた曲の中にはデュカスのソナタもあったとのことだが、これは是非聴いてみたかった!)。さぞかし密度の濃い時間であったことだろう。その師の「想い出」に寄せる演奏会ということで、演目にはフランスものが並ぶわけだが、例によって田隅先生ならではの「月並みではない」選曲である。

 前半の独奏曲はいずれも一見淡々とした表現の中にも、はっとさせられる瞬間がしばしばあった。演奏の随所に小さな綻びはあったものの、そのことで音楽の内的持続は微塵も妨げられない。とりわけ味わい深かったのがフランク作品。プログラムノートでは終わりの変奏曲の部分が「天からの賜物のような」と形容さているが、この日の演奏にもその趣きがあった。また、オネゲル作品は今回初めて聴いたが、これも実に面白い。

 後半は2台ピアノ。ラヴェルの《ラ・ヴァルス》は今や定番中の定番だが、それでも実演で聴く(観る)と楽しい。だが、それ以上に魅力的だったのがドビュッシー〈春のロンド〉だ。これまで自宅でCDの録音を聴いていたときにはこのピアノ編曲にはどこか物足りないものを感じていたのだが、実演で豊かな色彩と躍動感溢れる音楽に触れるとそうした不満は吹き飛び、まことに幸せな気分になった。

 というわけで、素敵な演奏を聴かせてくださった田隅先生(そして、大谷さん)、どうもありがとうございました。