2024年5月3日金曜日

別宮貞雄の失言?

  別宮貞雄(1922-2012)は作曲家であるとともになかなかの論客であった。そして、私はどちらかといえば、後者の点で別宮に敬服している(彼の音楽作品も嫌いではないが、今のところ深い感銘を受けるには到っていない)。彼の文章は常に明晰であり、強い説得力を持っているからだ。

 が、そんな別宮の言葉とは思えないようなものに出会って驚いたことがある。それは中丸美繪『鍵盤の天皇――井口基成とその血族』(中央公論新社、2022年)に納められたインタヴューの一節である。そこで別宮は「評論家というのは自分で音楽ができるわけではないし、本当のところたいしてわかっていない」(同書、437頁)と言うのだ。

  もちろん、作曲家・別宮貞雄がこう言いたくなる気持ちもわからぬではない。というのも、彼の作品は「現代音楽」全盛期に評論家から概ね冷遇されてきたからだ。しかしながら、それはそれとして、もし、音楽の専門家にしか本当にわからないような作品を自分が書いているのだとすれば、別宮はごく普通の聴き手のことをどう考えていたのか。 

いや、これは少しばかり意地が悪かった。おそらく、別宮には普通の聴き手のことを貶めるつもりは微塵もなかったろう。というのも、回想録『作曲生活40年 音楽に魅せられて』(音楽之友社、1995年)の中で、一般大学の学生が書く自作《有間皇子》への感想文について「中々立派な感想文があるのである。[……]専門の批評家も言ってくれなかった文藻にぶつかる」(同書、199頁)などと述べているからだ。つまり、別宮は普通の聴き手のことを決して低く見ているわけではないのだ。それゆえ、先にあげた「評論家というのは」云々の一節は、やはり評論家への積年の恨みが言わせた言葉だと解すべきだろう

だが、それはそれとして、実のところ、別宮が言うことには一片の真実が含まれているとも私は思う。すなわち、専門の音楽家とそうではない者の間では音楽の受け取り方は何かしら違ったものであらざるをえない、ということだ。ただし、それは前者の受け取り方が正しくて後者のそれが間違っている、などといった単純な話ではない。それに類することはこれまでにもこのブログの中で何度か述べてきた(し、拙著『演奏行為論』でも演奏というものに関して同様な問題に触れている)のだが、その本格的な展開を今年こそは『ミニマ・エスティカ』で行わねば……。

2024年4月30日火曜日

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い?

   シューマンの《ピアノと管弦楽のための幻想曲》の復元作業を行ったのは往年のシューマン研究の大家ヴォルフガング・ベティヒャー(1914-2002)だが、この人はナチス体制に与した反ユダヤ主義者であり、彼の研究におけるシューマンの文章や言葉の扱いにもそれが反映されているのだとか(Wikipediaの英語版や独語版を見ると、けっこうきわどいことが書かれている)。

となると、その研究成果(や、もちろん、その人物自体)に批判の目が向けられるのは至極当然であろうが、楽譜の校訂などはどう扱われていくことになるのであろうか。たとえば、ベティヒャーが校訂したHenle版の《幻想曲》作品17では第3楽章の最終頁に脚註で没になった当初のエンディング案が楽譜付きで示されている(これをチャールズ・ローゼンなどは賞賛している)が、同社の新版(当然、編者は異なる)ではその存在に言及されるのみで、楽譜は挙げられていない。もちろん、それは1つの考え方であり、どちらが絶対に正しいとか間違っているということではない。が、もしかしたら、新版の編者(と出版社)は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということで、「問題人物」ベティヒャーの痕跡を消去しようとしたのかもしれない。もちろん、本当のところはわからないが……。

 

選挙に投票に行ったからといって何かがすぐに変わるわけではない。が、少なくとも行かないことにはその可能性は生まれない。にもかかわらず、先日の補欠選挙でもびっくりするほど投票率は低かった。果たしてこの国はこれからどうなっていくのであろうか。

2024年4月25日木曜日

「没後50年 福田平八郎」展

  今日、「没後50年 福田平八郎」展(於:大阪中之島美術館)を観てきた。すばらしかった。彼の絵の何に惹かれるかといえば、飄々としたところ、そこはかとなく漂うユーモア感、構図やデザインの面白さ、といった点だろうか。かなりの数の作品やスケッチが展示されており、作者の確かな職人芸、芸の幅の広さ、そして、想像力・創造力の豊かさにただただ圧倒されるとともに、個々の作品を大いに楽しませてもらう。とともに、何とも晴れやかな気分になり、なんだか元気になった(私が芸術に求めるのはこうしたことであり、いくら何かを認識させ、考えさせてくれるものだとしても、その結果、絶望させる――ことがあったとしても、その中にたとえほんのわずかでも希望が見えてくるようなものならばともかく、そうでない――ような芸術であれば、私にとっては不要である)。

 

ところで、私が福田の絵画に出会ったのは中学生のとき。美術の授業で用いられていた副読本に収められていた『汀』という作品である。そこには他にもいろいろな作品(の写真)が納められていたが、この福田の『汀』とルネ・マグリットの『光の帝国』という絵がとりわけ私の心をとらえたのだった。その際、美術の教師の示唆は何もなかった。自分でそれを見つけ、好きになっただけである。が、そうした偶然の機会、その後の人生を豊かにしてくれたものとの出会いが与えられたことは幸いだったと思っている。たぶん、「何か」との同様な出会いをしている人は少なからずいよう。というわけで、やはり美術や音楽といった教科は義務教育からはなくなって欲しくない。

2024年4月20日土曜日

「全国大学生ピアノ選手権」なるものがある

 「全国大学生ピアノ選手権」(!)なるものがあることを知った(https://nupc.jp/)。教えてくれたのは関東在住で学生時代からの友人。彼女のピアノの生徒がそれに出場していたとのことで私もさっそく動画を観てみた(https://www.youtube.com/playlist?list=PLR3ZX-YqmTDNp1NeEw3F2xR2DsgYEP2m8。このうち7番目の動画でスクリャービンを弾いている学生の演奏だ)が、まあ達者なものである。他の演奏もいろいろ聴いてみたが、なかなかに楽しめる。

この選手権の参加規定が「音大以外の大学生・院生・専門学校生であること」となっているところも面白い。私は実のところ、「コンクール」とか「コンテスト」とかいった類のものは好きではないのだが、それはそれとして、今やじり貧のクラシック音楽にとってこうした企画の持つ意義は大いに認めないわけにはいかない。

まだ第1回が先頃済んだ(ただし、「Web聴衆賞」の選出はまだ。5月9日までのYoutubeでの視聴回数と高評価がカウントされるとのこと:https://nupc.jp/1st-web-audience-award/)ばかりなので、この先どうなるかはわからないが、興味を持って見守りたい(なお、その第1回の本選出場者は旧帝大か東京の有名私大の学生ばかりだが、この点は音楽社会学にとって格好のネタであろう)。

 

2024年4月19日金曜日

シューマンの《ピアノと管弦楽のための幻想曲》

  シューマンのピアノ協奏曲の第1楽章が元々は《ピアノと管弦楽のための幻想曲》として書かれたものだが、それを復元した楽譜が出ていること(Eulemburg版、1994年刊)を恥ずかしながらつい最近まで知らなかった。この「幻想曲」と「協奏曲」に大きな違いがあるわけではないが、細部にはいろいろ変更点があり、なかなかに面白い(音源:https://www.youtube.com/watch?v=K4PEANOD3yc)。そして、単純に後者が前者の「改良版」だというわけではなく(ただし、冒頭については「協奏曲」の方が断然よい)、前者にもそれなりの魅力があるように思われた(さればこそ、「協奏曲」の演奏に「幻想曲」に由来するパッセージを用いたもの――たとえば、ハインツ・ホリガー指揮の管弦楽――もあるわけだろう)。ともあれ、シューマン・ファンにとっては一見、一聴の価値ある作品だといえよう。

 

2024年4月11日木曜日

プロコフィエフの第8ソナタの楽譜

  全音楽譜出版社が継続的にプロコフィエフの楽譜を出し続けてくれていることは、彼の音楽の大ファンとしてまことにありがたいことだと思っており、今後も継続を強く期待している。

 さて、このところ同社刊の第8、第9ソナタを納めた巻で前者のソナタを見ている。編者(佐々木彌榮子)は校訂の底本にブージー&ホークス版を用いたと述べているにも拘わらず、それとは異なる箇所がいくつか目に付く。そこで試しに旧ソ連から出ていた版を見てみると、まさにこちらと一致しているのだ(のみならず、楽譜のレイアウトも同じ)。もちろん、この版(編者が校訂に用いた資料として名を挙げているのはMCA社版だが、中身は旧ソ連の版と同じ)を参考にしてブージー版を訂正することは1つの「解釈」であり、それ自体に問題があるわけではない。問題はそれを何ら断らずに行っていることだ。ここはやはり、訂正する前のかたちも註釈で示し、それを退けた理由についても説明すべきだったろう。そうすれば、楽譜ユーザーが自分で判断し選択できるわけで、その可能性を閉ざすことは現在の楽譜編集のあり方としては好ましくない(なお、浄書のミスだろうか、何カ所か臨時記号が抜けているところもあった)。とはいえ、この全音版のおかげで楽譜が入手しやすくなったのは確かであり、それは日本のユーザーにとってはありがたいことであろう(もっとも、早々に不備は正した方がよかろう。なお、きちんと資料批判を経たプロコフィエフのピアノ・ソナタの校訂版の登場は今後に待たねばならない。Henleからは第7番が出ているので、続刊に期待)

 

2024年4月3日水曜日

西洋音楽の日本語的演奏について ――あるいはクレオール語としての日本的西洋音楽――

  ここ数年考え続けていたことについて、「研究ノート」としてまとめてみた(次のリンク先からダウンロードできるので、ごらんいただきたい:https://www.jstage.jst.go.jp/article/daion/62/0/62_58/_article/-char/ja)。

2024年3月25日月曜日

第251回クラシックファンのためのコンサート:中野慶理ピアノ・リサイタル

 「クラシックファンのためのコンサート」というNPO法人がある(https://classicfan.jp/?page_id=37)。そこが主催する演奏会シリーズの通算第251回目に中野慶理先生が出演されるので聴いてきた(321日、於:大阪倶楽部会館4Fホール。なお、先生はこれまでにもこのシリーズに何度も出演されているとのこと)。

 演奏会は1時間ほどのコンパクトなものなのだが、個々の曲に先立って演奏者によるトークもあり、この会場(https://osaka-club.or.jp/guidance-room/)ならではの雰囲気も相俟って、まことに充実した時間だった。演目は次の通り:

 

 ドビュッシー(ボルヴィック編):牧神の午後への前奏曲

 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第27番ホ短調 op. 90

 ブラームス:4つの小品 op. 119

 草野次郎:「宵待草」の主題によるパラフレーズ

 

 この日もっとも楽しみにしていたのが最初の演目《牧神の午後への前奏曲》。言わずと知れた管弦楽の名曲だが、それを中野先生がピアノで弾くとなれば、何かを期待せずにはいられないではないか(しかも、自分が音楽の道へ進むことを決意させたのがこの曲だったと先生が演奏前に語っただけに、なおのこと)。そして、実際、すばらしい演奏だったのだが、聴きながら、それがどんな楽器によって奏でられているかなどはほとんど気にならず、音楽自体がストレートに迫ってくる心地がした。名曲、名演。

 続くベートーヴェンとブラームスの曲について、中野先生は演奏前に独自の解釈=物語を披露してくれたが、いずれも「なるほど、そういうふうにも音楽を読み解けるものなのか」と唸らされる(こうした「物語」で示される想像力の豊かさは先生の演奏の魅力と無関係ではあるまい)。もちろん、演奏自体にも。とりわけ心惹かれたのはベートーヴェンのソナタ、とりわけ、いわばピアノによる「リート」たる第2楽章だ。そのときに覚えた幸福感は筆舌に尽くしがたい。

 最後の演目の魅力について先生は熱く語っておられたが、演奏はそれを立証する見事なものだった。加えて、この曲にとっては今回のようなこじんまりした、親密な雰囲気の漂う会場も大いにプラスに作用したことだろう。ともあれ、ここでもやはり幸せな気分に浸ることができたわけで、作曲者(随分前に、この方の《管弦楽のための協奏曲》を実演で聴いたことがある。中身は忘れてしまったが、佳曲だったと記憶している)に感謝。

 

 中野先生の演奏はいつ聴いても何かしら発見があり、充実感と幸福感を味わうことができる。先生、今回もどうもありがとうございました。

2024年3月16日土曜日

日々のつれづれ

  このところ「ピアニスト・ラフマニノフ」の録音を改めて聴き直している。言うまでもなく作曲家として偉大な彼だが、ピアニストとしても20世紀屈指の存在だ。その凄さは「作品の解釈者」としてのものというよりも、「創造的なパフォーマー」としてのものであり、こうしたものに馴染んでしまうと、ますます演奏会から足が……(もちろん、「これは!」と思うものがあれば、躊躇せずに出かけたいが)。

 

 日本語で読めるプロコフィエフ関連本はごく限られていた(というよりも、ほとんどない、という方が正しい)が、最近、好著が出た。それは菊間史織『プロコフィエフ』(音楽之友社、2024年)である(https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=221900)。彼の生涯と音楽のありようが新しい情報に基づいて手際よくまとめたられているのみならず、読み物としてもよいので、ファンには強くお勧めしたい。

 そのプロコフィエフの第8ソナタを今勉強中。新年度からそれを取り上げる学生がいるからだけではなく、自分でもこの作品のことをもっとよく知りたいと思ったからだ。そこで、楽譜に「塗り絵」をした上でピアノに向かって音の感触を耳と指で味わっている。なかなか先へは進まないが、それでもまことに楽しい。このプロコフィエフに限らず、他の作曲家の作品についてもこのところそうした楽しみ方をしているので、ますます演奏会から足が……。

 

 今年はシェーンベルク・イヤーだが、他の作曲家のように作品をまとめたCDボックスが出るということは今の時点ではないようだ。やはり、彼の音楽はいまだに普通の聴き手にとっては馴染みがたい「現代音楽」なのだろうか? 

2024年3月9日土曜日

小菅 優 いずみ室内楽シリーズ Vol.1 祈り

  昨夜は大阪のいずみホールで「小菅 いずみ室内楽シリーズ Vol.1 祈り」を聴いてきた。近年すっかり演奏会から足が遠のいている私でも「これは聴きに行かねば!」と思わされるプログラムだったからである。その期待を裏切らないまことに充実した演奏会だった。

この演奏会の主題は「祈り」(https://www.izumihall.jp/schedule/20240307)であり、演目は次の通り:

 

C. サン=サーンス:祈り op. 1581919

L. ブーランジェ:哀しみの夜に(1917-18

0. メシアン:多くの死(1930

時の終わりのための四重奏曲(1940

 

いずれも20世紀前半、精確に言えば第1次大戦中から第2次大戦中までの間にフランスの作曲家が書いた作品だが、演奏会のコンセプトがはっきりと伝わる選曲であり、作品の内容、演奏ともにまことに聴き応えがあった。

 どの作品、演奏にもそれぞれに心惹かれたが、やはり四重奏曲が圧巻。メシアン作品の演奏にはともすると耽美的なだけのものになりかねない危険があるが、今回の演奏はそうではなく、いろいろな面で並外れた、そしてしばしば異様でさえある作品世界を見事に現出させていたように思われる。とりわけ第67曲での錯乱には震撼させられたし、第3曲でたった1本のクラリネットが描き出す世界の広さと深さにはただただ圧倒される。他の曲の演奏もすばらしく、全曲を通じて実に濃密な「時」を過ごすことができた。

 サン=サーンスは大好きな作曲家なのに実演で触れることができるのはごく限られた作品だけなので、録音でしか知らなかったものがこのように生で聴けるのはうれしい。よくぞこの曲を選んでくれたものだ。

 ブーランジェの《悲しみの夜に》は初めて聴いたが、ホ(短)調の暗く悲しみに満ちたトーンの音楽が終わりにつかの間明るくなるものの、最後の和音がそれをいわば打ち消すようなものになっており、作曲者の「悲しみ」の深さを思って胸が痛む。が、それはそれとして、改めてこの夭折の作曲家への興味は深まるばかり。

 メシアンの《多くの死》は録音で知っていたものの身を入れて聴いていたわけではなかったので、今回の演奏によってその魅力を教えられた。

 ともあれ、この企画、演奏ともにすばらしい演奏会を聴かせてくれた音楽家の方々、そして運営に関わった方々に心からの御礼を。どうもありがとうございました。なお、この演奏会シリーズはあと2回あり、主題はそれぞれ「愛」と「希望」だとのこと。今回の演奏会のすばらしさを思えば、当然、期待せずにはいられない。

2024年3月1日金曜日

中野慶理先生の退任記念演奏会

  今日は中野慶理先生の退任記念演奏会を同志社女子大学で聴いてきた。言うまでもなく、すばらしかった。演目は次の通り:

 

 ショパン:ポロネーズ=幻想曲 作品61

 スクリャービン:エチュード 作品21425812、ソナタ第2

 

 スクリャービン:ソナタ第10

 ラフマニノフ:〈舟歌〉作品103、〈V. R. のポルカ〉

 リスト:《慰め》第3番、《ハンガリー狂詩曲》第2

 

先生が得意とし、打ち込んできた作曲家の作品がまことに効果的な順番で奏でられるとなれば、魅せられないわけにはいかない(どの演目も見事だったが、とりわけ心惹かれたのはスクリャービンの作品425だ。これまでホロヴィッツの1953年の録音が私にとっては最高の演奏だったが、中野先生の演奏は表現のありようこそ異なりこそすれ、それに匹敵するものに思われた。しかも、録音ではなく実演なのだから感動もそれだけ深い)。

 が、それはそれとして、今日はこれまでの中野先生の演奏から受けるのとは些か異なった感動があったので、そのことを述べておきたい。それは最初の演目のショパンでのこと。妙なる響きに耳を傾けるうちに胸中にわき起こってきたのは、遙か昔、ピアノ音楽を聴き始め、自分でも弾き始めた頃に味わったような感覚だった。当時はそれこそ何を聴いても弾いてもすべてが新鮮で輝きに満ちており、胸の高鳴りを覚えずにはいられなかったが、その何とも幸せな感じ――いろいろな経験を積む中に次第に薄れていったもの、いわば「失われた時」――が俄に蘇ってきたのである。そして、それは演奏会の最後まで失われなかったのだ。

 というわけで、そうした幸せな感覚をもたらしてくれた中野先生に心から御礼を申し上げたい。なお、今月は先生の演奏会をもう1つ別に聴かせていただく予定があるので今から楽しみでならない。

2024年2月25日日曜日

何の引っかかりも残さない音楽

  最近ラジオで近作の「現代音楽」作品をいくつか聴いた。いずれもまことによくできており、聴いていてほとんど何の不満も生じない。それどころか楽しかったとさえ言える。にもかかわらず、それらの作品はこちらに何の引っかかりも残さない。だから、もう一度聴いてみたいとは思わない。これはいったいどうしたことか?

 昨今の作曲家たちの音を扱う技術の見事さにはただただ驚かされる。1970年代くらいまでの「前衛」が不器用にやっていたことを彼らはいともたやすく、格段に効果的な作品に仕上げてしまう。もちろん、それはそれでけっこうなことではある。が、そうした「技術」でもって「何」をしたいのかが私にはあまりよくわからない。わかりたいという気持ちはある。が、自分の実感を無視したいとも思わない。となると、やはり、他にもいろいろ聴いてみるしかなさそうだ。

 

2024年2月19日月曜日

音楽の「聴き方」と「語り方」のリセット

  友人のピアニスト、呉多美さんの企画・主宰でちょっと面白い試みが始まった。それは次のものだ:


 

その誕生のきっかけについてはご本人の文章を読まれたい:https://ameblo.jp/fluigelmusikakademie/entry-12839755823.html

 そのリンク先にある呉さんの文章にある、「せっかくコンサートに出かけても実技試験的に聴いてしまう自分を見つけては聴き方が貧しすぎて、もはや職業病だなぁと自嘲…」云々という件は私にとっても他人事ではない。先月もある演奏会でまさにそうした聴き方――つまり、「ここはこうすればもっとよくなるのになあ、あそこは……」といった類のこと――をしてしまったのだが、後で振り返ってそんな自分が嫌になってしまう。そして、こう思うのだ――たとえ自分の価値観からすれば高く評価できない演奏であってもそれを聴く機会を偶さか得たのならば、そこに何かしら美点や学べる点を見つけることができ、楽しむことができれば、自分にとって音楽はいっそう有意義なものになり、人生もさらに充実させることができるだろうに、と。

 ともあれ、こうした場というのはなかなかありそうでないし、 演奏する人にとっても、聴く人にとってもそれなりに意味のあるものになりうるのではなかろうか。実は昨日が第1回であり、まだまだ試行錯誤の段階ではあるが、これからの展開の手応えを感じた。ただ、もちろん、それにはその都度、場を積極的に一緒につくりあげていく人たちの参加が欠かせない。というわけで、興味をお持ちの方は是非!(ちなみに、次回は4月21日)。

2024年2月16日金曜日

今月の「100分 de名著」

  今月はNHKの「100 de名著」を観ている。取り上げられているのがリチャード・ローティの著作であり、「指南役」が哲学をまさに日々実践している哲学者、喜哲さんだからだ(https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/pEwB9LAbAN/bp/poVnBqWgLo/)。すでに2回放送されているが、いずれの回も実に見応えがあった。再放送もあるので、未見の方は是非!

 

 ところで、朱さんは昨年、『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす: 正義の反対は別の正義か』(http://www.tarojiro.co.jp/product/6397/)という著作を世に送り出しているが、これも「名著」である。書名にある「乗りこなす」という文言がミソで、同書で説かれているように考えてみれば、日々の暮らしの中にあるいろいろな息苦しさは何かしら軽減されるのではなかろうか。

 なお、同書は音楽(をめぐるコミュニケーションの問題)のことを考える上でも示唆に富んでいる。というわけで、これを活かして私も自著を書かねば……。

2024年2月9日金曜日

グヴィズダランカ『現代ポーランド音楽の100年――シマノフスキからペンデレツキまで――』

  いわゆる「現代音楽」を含む20世紀の音楽に興味がある人でも、その時代のポーランドの作曲家や作品について多くを知っている人はほとんどいまい(かく言う私もそうだ)。が、ルトスワフスキをはじめとする何人かの優れた作曲家とその作品を知る人ならば、他のポーランドの作曲家についてもあれこれ知りたいと思うのではなかろうか(私もまた)。そんな人にとって、格好の本が出た。ダヌータ・グヴィズダランカ『現代ポーランド音楽の100年――シマノフスキからペンデレツキまで――』(白木太一、重川真紀訳、音楽之友社、2023年)がそれだ(https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=112170。ちなみに、同書を私は訳者の1人で気鋭のポーランド音楽研究者、重川真紀さんからいただいた。どうもありがとうございました)。

同書は書名に示された内容をまことに手際よく、かつ、魅力的な筆致で述べており、一読すればポーランド音楽への興味がいっそう深まることだろう。私も読みながら、あれこれの作品を聴いてみたいと思った。昔ならばそれは絶望的に難しかっただろうが、今やインターネットのおかげでかなり容易になったがありがたい(実際に何人かの作曲家の作品を試してみた)。というわけで、皆様も是非、お試しあれ。

ところで、「訳者あとがき」によれば、同書原本は「2018年にポーランドが独立回復百周年を迎えるにあたり。ポーランド音楽出版社(PWM)のイニシアティヴのもと、国内外の文化研究機関が連携しながらこの百年間におけるポーランド音楽の歩みを広く紹介する「百年百曲。音楽と時代と自由と」というプロジェクトの一環として出版された」(同書、188頁)ものだという。なるほど、(少なくとも近現代においては)周囲の大国に蹂躙・翻弄された歴史を持つポーランド――すなわち、国の内と外の両面で自己のアイデンティティを強く示す必要に迫られ続けてきた国――ならではの事業(この邦訳書は「駐日ポーランド大使館、ならびにポーランド広報文化センターから出版のための助成を受けた」(同、191頁)とのこと)と言うべきか(この点ではショパン・コンクールやショパンの「ナショナル・エディション」(いわゆる「エキエル版」)も同様)

他方、2018年といえば、わが日本も「明治150年」を祝って(?)いたはずだが、音楽文化面でどんな有意義な事業がなされたかがとんと思い出せぬ。 「たかが音楽」と言うなかれ。こうしたことは一事が万事である。諸外国に比べて文教予算を大いにケチっている国家の未来は決して明るくはない。

2024年2月5日月曜日

池内友次郎の対位法とフーガの教本がリニューアル復刊

  池内友次郎の対位法とフーガの教本3冊が音楽之友社から復刊された(https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/result.php?author=%E6%B1%A0%E5%86%85%E5%8F%8B%E6%AC%A1%E9%83%8E)。ただし、オリジナルのかたちではなく、今日の読者向けにリニューアルされている(https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=105240)。

 この「リニューアル」は一長一短だと思う。まず、第1点、「譜例のハ音記号をト音記号やヘ音記号に変換」というのは、なるほど、初学者にとっては便利ではある。が、ハ音記号にもそれなりの利点があるわけで、それを捨てるのはいかがなものか。ハ音記号を使えば、譜面(ふづら)上、バス(これはへ音記号)とテノールの、そして、アルトとソプラノの最低音と最高音は同じところに記される。つまり、声部の違いに関わらず記譜上の音域は(ほぼ)同じ場所になるわけで、これは音を実際に扱う上でわかりやすい。その点、テノールにヘ音記号、アルトにト音記号を用いればそうはいかないし、加線の数も増えて譜面が煩雑になる。また、ソプラノ記号、アルト記号、テノール記号(いずれもハ音記号を用いるが、五線上の位置が異なる)が読めれば、移調楽器の楽譜を読むのに役立つ。確かに最初は慣れるまでに時間がかかるかもしれないが、その苦労は十分に報われよう。

 リニューアルの第2点、「文語的な文章表現を変換」というのは学習者にとっては大いにけっこうなことだと思う(ただし、泉下の著者(高浜虚子の子息で、俳句でも一家を成した人物)には少なからず不満はあるかもしれない)。また、第3点、誌面デザインの刷新」というのも読みやすさの点で好ましい。

 もっとも、このリニューアル復刊の意義は、私には正直なところまだよくわからない。というのも、対位法については山口博史『パリ音楽院の方式による厳格対位法』という好著が同じ出版社から出ており、こちらの方が池内のものよりも有用だと思われるからだ(池内の『二声対位法』については、細かい説明の点で、音楽之友社版以前に全音楽譜出版社から出ていた『対位法講義 第Ⅰ部 二声』の方が格段に親切だ)。が、その山口本と併用すればよい結果が得られるかもしれない。また、『三声-八声対位法』と『学習追走曲』(新版では『学習フーガ』)は長らく版が途絶えていたので、その点でも同書に触れたかった人にとって復刊は有意義であろう。

 なお、私の全く個人的な考えだが、池内の一連の教科書で復刊されるべきは、むしろ『和音外音』であり、また、『和声実施集』ではなかろうか(なお、前者については課題の作成者、野田暉行による解答例を同氏の『和声100課題集』(https://www.teruyuki-noda-officeoversea.com/%E5%95%86%E5%93%81%E7%B4%B9%E4%BB%8B/#cc-m-product-12456715787)の「付録」で見ることができる)。後者については第三者による詳しい分析と解説が付けられれば、いっそう有用なものとなるはずだ。

2024年1月31日水曜日

以前

  以前、坂本龍一が松本清先生のところに習作の返却を求める電話をかけてきたことを話題にした(https://kenmusica.blogspot.com/2023/05/blog-post_26.html)。その際、坂本は「お父さまとお兄さまにはたいへんお世話になりました」と言ったとのことだ。このことを清先生から昨日Google Meetによる会話の中でうかがい、「さもありなん」と私は思った。というのも、坂本龍一が「世界のSakamoto」たり得たのは、1つには優れた「職人芸」があってのことであり、その土台が築かれたのは松本作曲教室だったに違いないからだ(ちなみに、彼は作曲教室で課された宿題は実にきちんとこなし、作品発表会にも真面目に参加したという)。

 とはいえ、坂本はそのことを公の場ではあまり認めていない。彼が生前にものした文章をあれこれ読んでみると、松本民之助については否定的に語られたものばかりが目に付く。もちろん、師匠に批判されるべき点がなかったわけではあるまい。が、それにしても……である。

 では、そんな坂本が上記のように語っているのはどういうわけか? おそらく、己の死を目前にして、もはや「ええかっこしい」の必要もなくなり、素直にそう思ったことを言葉にしたのであろう(これについては清先生も同意見)。だとすると、なかなかに感動的なことである。

 

2024年1月24日水曜日

メモ(107)

 「人を不幸にする思想はいらない」(冨田恭彦『詩としての哲学』、講談社、2020年)というのは名言だが、同じように「人を不幸にする音楽はいらない」と言うこともできよう。そして、この場合、音楽のありようよりもむしろ、その用い方のほうが問題となる。

 

 母が亡くなってほぼ一ヶ月。意外と平気なものだ。以前から時間をかけて心の準備をしていたからということもあろうが、自分もさすがにこの歳にもなると「人はいつかは必ず死ぬ」ということを当然のこととして受け入れられるようになっていたからでもあろう。もっとも、これは母がそれなりの年齢まで生きたからそう思えるのであって、もっと若い人の死に対してはそうはいくまい。

2024年1月16日火曜日

メモ(106)

  私は日本語によるラップにはどうしても違和感を覚えずにはいられない。英語のリズムから生まれた音楽なのに、それとは根本的に異なる日本語のリズムでやろうとしても無理が生じるのは当然というもの。

 日本語でラップのようなことをやるならば、自国の音楽にヒントを得た方がよかろう。たとえば河内音頭などはどうだろうか。

2024年1月12日金曜日

人生最後の1曲?

  コロナを全くの無傷で乗り切った私だが、昨日、数年ぶりに発熱した(今日検査したら、コロナでもインフルエンザでもなかったので、ただの風邪だったわけだ)。さほど高い熱でもなかったのだが、久しぶりだと身体に応える。もちろん、その間は音楽などお呼びでない。

 そこでふと思ったのは、いずれ自分も病を得て亡くなるのだろうが、その直前に優雅に「人生最後の1曲」などを楽しむのは難しかろう、ということだ。ちょっとした発熱程度でこうなのだから、もっと重篤な病だったら推して知るべし。

 もっとも、人の死などいつ、どういうかたちで襲ってくるかなどわかったものではない。そこで、音楽についてもいつそうなってもかまわないようにしておけばよかろう。すなわち、常に「今、自分が一番聴きたい(弾きたい、楽譜を読みたい)」音楽に触れるようにすればよい、ということだ。そうすれば、今際の際に「ああ、あれを聴いて(弾いて、読んで)おけばよかった」などと後悔することもなくなろうというもの。……おっと、これではますます演奏会から足が遠のきそうだ。

2024年1月6日土曜日

「面白い情景」??

  シューマンのピアノ曲《謝肉祭》作品9にはScènes mignonnes sur quatre notesという副題がついている。この中のScènes mignonnesを「面白い情景」と訳したものがあるが、誤訳だろう。「小場面集」(あるいは「小景集」)でよいのではないか。

 

日課の1つとして楽譜の「塗り絵」を続けている。するといろいろなことがわかるので、面白くてやめられない。たとえば、バルトークのピアノ・ソナタで試みたところ、音楽の多層性と多旋法性が一目瞭然になり、この作品への興味が深まった。

2024年1月1日月曜日

2024年の始まり

  2024年が始まった。昨日述べたように、とにかく自分の「これだ!」ということに励むしかない。 

 今年の「初弾き」はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番第1楽章(もちろん、うまくは弾けないが)。そして、「聴き初め」はシェーンベルクの作品12。今年は彼の生誕150年なので、日々、作品番号順に作品を聴いていくつもりだ。それにしても彼は一生の間にこの出発点から何と遠くへ行ってしまったことか。だが、それにもかかわらず、最後までその音楽は伝統に深く根ざしていた。まことに偉大な作曲家である。

  なお、今年はシェーンベルク以外の有名どころではブルックナーとライネッケの生誕200年、ブゾーニの没後100年、アイヴズの生誕150年、團伊玖磨の生誕100年。

 

 [追記]

 上の文を投稿したのち、まさかあのような地震があるとは……。自宅でかなりの揺れを感じたが、たぶん震源はどこか別のところだと思ってすぐに調べてみると、石川県の能登ではないか。一週間前に葬儀で金沢へ出かけてきたばかりなので、なおのこと驚きである。被災者の方々にお見舞い申し上げたい。