2023年5月30日火曜日

『西岡沙樹 ピアノリサイタル -フォーレ、移ろう色彩』

  少し前に話題にしたフォレの夜想曲+即興曲全曲演奏会、すなわち、『西岡沙樹 ピアノリサイタル -フォーレ、移ろう色彩』(https://phoenixhall.jp/performance/2023/05/30/18610/)を聴いてきた。こうした企画は存外ありそうでないのでとても楽しみにしていたのだが、その期待は裏切られなかった。

 演奏がはじまってしばらくは演奏自体のありようを耳で追っていたが、気がつくと音楽自体が直に迫ってきていた。それが強く意識されたのは前半の中程で弾かれた《即興曲 第3番》でのこと。冒頭主題が再現されたとき、得も言われぬ幸福感に襲われたのだが、それはこの作品のありようのみならず、フォレの音楽を味わう喜びに由来するものでもあった。そして、この幸福感は演奏会の最後まで失われなかったのである。

 ところで、夜想曲はある時期以降のフォレの作曲の中で最後まで書き継がれた曲種であり、その全曲演奏は作曲家フォレの一代記の観を呈する(なお、そこに別の曲種たる「即興曲」を組み合わせるというのは音楽に変化をつけるという意味でとてもよかった)。というわけで、個々の作品のありようもさることながら、その様式の移り変わり自体が1つのドラマとしてまことに面白く感じられたし、逆にそうしたドラマが個々の曲をいっそう味わい深いものとしていたように思われる。とりわけ最後の夜想曲たる第13番は格別だった。

 もちろん、以上述べたような音楽を聴かせてくれ、1つの演奏会を満喫させてくれたピアニスト西岡沙樹さんのことを賞賛しないわけにはいかない。またいずれ機会があれば聴いてみたいものである(デュカスのピアノ・ソナタやドビュッシーのエチュード集などを取り上げてくれたらうれしい)。ともあれ、すばらしい演奏会を聴かせていただき、ありがとうございました(このお礼はもちろん、演奏会の企画・運営に携わった方々に対しても)。

2023年5月28日日曜日

ドイツ・グラモフォン/アヴァン・ギャルド・シリーズ

  次の新譜(精確に言えば、旧譜の再発売)情報を見て、胸がときめいた:https://www.hmv.co.jp/artist_Contemporary-Music-Classical_000000000035722/item_%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%EF%BC%8F%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%EF%BC%8821CD%EF%BC%89_14002093。昔懐かしの「現代音楽」のディスクである。これらは今から半世紀以上前にLPでリリースされたものであり、私がそうした音楽を聴き始めた頃にはもはや入手不能でくやしい思いをした。が、そのうちの何枚かは金澤攝さんのおかげで聴くことができた。初対面のときに貸してくれたのが、まさにこのシリーズのうちの数枚であり、中でもリュック・フェラーリの《ほとんど何もなし1》と《ソシエテ2》を収めた1枚は衝撃的だった。

 もはや歴史の一コマとなった「現代音楽」については私は今でも楽しく聴くことができる(それがアクチュアリティーを持っていた時代への羨望の念を抱きつつ……)。それゆえ、今回のように再発売盤や未発売録音が出ると、ついうれしくなってしまう。昔と同じように聴くことはできないにしても、良くも悪くもいろいろと発見があるからだ。そして、いろいろなことを考えさせてくれるからだ。というわけで、このセットが発売されたら是非とも購いたいと思っている(初出時に含まれていたシュトックハウゼンのディスクが数枚欠けているのは残念。「作曲家の意図を尊重し、今回のシリーズには含まれていません」と発売元は言うが、たぶん、Stockhausen-Verlagが許可しなかったか、使用料が高額で収録を断念したかのどちらにすぎまい)。

2023年5月26日金曜日

昨晩は

  昨晩はGoogle Meetを用いて松本清先生と3時間に及ぶ四方山話をした。いろいろな話を伺ったが、その中にはこの3月に亡くなられた先生の兄上、松本日之春1945-2023)氏のことも含まれる

 日之春氏は元々は「現代音楽」の最先端を行っていた人だが、ある時期以降、それをきっぱり捨てている(実のところ、そうした作曲家は少なくなく、そうなると改めて「『現代音楽』とは何だったか?」と問い直したくなるところである)。その辺りの事情についてはご本人も公の場で語っているが(https://www.youtube.com/watch?v=Uj_nDYC71VY)、清先生にもまた違ったふうに述懐しており、それを伺って「なるほどなあ」と唸らされた。まさに「人生いろいろ」である。そして、私は日之春氏の脱「現代音楽」後の作品の方に親しみを覚える。

 そして、そうした日之春氏の音楽家としてのあり方に(良くも悪くも)大きな影響を及ぼしたのが父、民之助氏の「猛特訓」であった(上の動画を参照)。ところが、清先生はこれとは違った教育を受けたとのこと。すなわち、最初に楽譜を「書き写す」ことではなく、大量の音盤を「聴く」ことを課されたというのだ。そして、清先生曰く、それが2人の作曲家としての性格の違いにも現れているとのこと。これはなかなかに興味深い話である。

 ところで、坂本龍一は日之春氏とはそれなりに交流を保ち続けたが、清先生とはそうではなかったという。が、日之春氏が亡くなってすぐに、その坂本氏が清先生のところに電話をかけてきた(会話をしたのは50年ぶりくらいのことだったとか)。用件はといえば、氏が少年時代に書いた曲の楽譜の返却を請うものだったという(これは「終活」の一環だったのだろう)。その「楽譜」は日之春氏が保存していたものだが、氏が亡くなってしまったので、弟の清先生に連絡が来たわけである。そのように習作を消去したくなるのは創作者としてはまあ当然のことであり、先生はこっそり複写を取るようなことはもちろんせず、そっくりそのまま返却し、それから程なく坂本氏の訃報に接することとなった。まるでドラマの一コマのようではないか。

 他にもいろいろと興味深い話題があったが、それについてはいずれまた。

2023年5月23日火曜日

信時潔の歌曲集《沙羅》

  信時潔(1887-1965)の名作、歌曲集《沙羅》を久しぶりに聴いてみた。やはり、すばらしい(とりわけ、第1曲の〈丹沢〉が)。私がこの曲集を知ったのは今から30年ほど前のこと。恩師、田鎖大志郎先生がこれを絶賛しており、それで聴いてみたのである。が、当時はまだそのよさがわかっていなかったなあ、と今にして思う。

 もっとも、この《沙羅》は「日本歌曲」のまだ黎明期の作であり、日本語と歌の関係で解決すべき問題をいろいろと抱えてはいる(そのことは、たとえば次の録音を聴けばおわかりいただけよう:https://www.youtube.com/watch?v=Z6fQqT_GrVA)。とはいえ、それでも十分に聴かせるだけのものがこの曲集にはある。《海道東征》などよりもこちらを私は格段に好む。

2023年5月21日日曜日

メモ(97)

 もっぱら美音で満たされた音楽作品や演奏はつかの間の快をもたらしてはくれるが、後味が悪い。空しい美辞麗句と同様に。


 この佳品で聴くに堪える演奏の録音に初めて出会った:https://www.youtube.com/watch?v=DJdoOtF4qJ4。これもいずれ是非、実演で聴いてみたいものだ。若きピアニストに期待しよう。

2023年5月19日金曜日

シェーンベルクへの興味の再燃

  このところ自分の中でシェーンベルクへの興味が再燃している。ただし、それは音楽史絡みのものではなく、もっと即物的なものだ。すなわち、「シェーンベルクが生み出した音楽のうち、今日でも作曲や演奏にとって『使える』部分はどこにあるのか?」ということである。

こうした興味はシェーンベルクに対してだけではなく、20世紀の「現代音楽」のさまざまな試みに対して私が抱いているものだ。「焼き畑農業」式に繰り広げられた「現代音楽」の創作だが、過去のそれを「もう終わったこと」として顧みないのではあまりにもったいない。そして、シェーンベルクほどのビッグ・ネームについてさえ、「今でも使える部分」という観点から、いろいろと面白いこと、有益なことが見えてくると私は思う。

 

シェーンベルクやその門弟たちの作品を聴いて私が面白く感じるのは、その「技法」ではなく、直接聞き取れる音のありようである。たとえば、ほとんど「紙の上」でしか確認できないような、音列がどのように巧みに用いられ、音楽が堅固に構成されているかといったことは、私にとってはほとんどどうでもよいことだ。 


小室直樹の『危機の構造』(1976年初版、2023年新装版:https://www.diamond.co.jp/book/9784478116395.html)を読んでいるが、ほぼ半世紀前に書かれたこの本でなされている日本人の思考・行動様式に対する診断は今でもそのまま当てはまるようだ。恐ろしいことである。

 

 

2023年5月16日火曜日

フォレの夜想曲+即興曲の全曲演奏会への期待

  ガブリエル・フォレは高名な作曲家だが、ある時期以降の作品については、その「わかりにくさ」のためか、意外に実演で聴ける機会が多くはないようだ。それゆえ、その夜想曲と即興曲全曲が取り上げられるとなれば、大いに食指が動く:https://phoenixhall.jp/performance/2023/05/30/18610/。ピアノ音楽ファンはもちろん、フランス音楽ファンも十分に楽しめる演奏会であろう。

 

2023年5月14日日曜日

以前、「2019年も終わり」という投稿で

 以前、「2019年も終わり」という投稿で次のようなことを述べた。

 

来年は「ベートーヴェン・イヤー」ということになっている。それはそれでけっこうだが、もし、音楽会の企画がベートーヴェン優勢になりすぎるとすれば、クラシック音楽界の未来は限りなく暗いと言ってよい。他にも優れた作曲家は何人もおり、作品もいろいろあるのだから。さて、果たしてどうなることやら。

 

そこで言いたかったのは、ベートーヴェンの音楽自体への批判ではなく、あくまでも演奏会の企画のマンネリや貧困さへの批判である。それゆえ、「ベートーヴェン」の名は他の有名作曲家、音楽史で「巨匠」として遇されている人たちの名――バッハ、モーツァルト、シューベルト、ショパン、ete.――に置き換えてもかまわない。とにかく、いかにすばらしい作品、名作であろうとも、過度に繰り返し取り上げられるとなれば、「そんなものにはつきあいきれない」と思っている聴き手は少なくないのではないか。

 もっとも、こう言うと「実際に客を呼べるのは大作曲家であり、その名曲だ」と反論されよう。なるほど、今のところはそうかもしれない。だが、これからはどうか? 演奏会の客席を見渡すと、若者の数の少なさ、言い換えれば聴衆の高齢化に驚かされないわけにはいかない。すると、そうした聴衆がいなくなったら、どうなるのだろう? 新たに若い聴き手を呼び込めないことには演奏会、ひいてはクラシック音楽界は衰退するしかあるまい。

 では、どうすればよいのか? 1つは「(必ずしも「知られざる名曲」だけによるものではなく、有名曲をもうまく活用した)演奏会企画の工夫」であり、もう1つは「魅力的な新作の安定供給」であろう。いずれもそうたやすいことではないかもしれないが、その気になればイノヴェィションをできるだけの潜在的な力を現在の音楽界は十分持っているはずだと私は思う。とはいえ、ぐずぐずしているとその可能性も失われてしまう(こうした「イノヴェィション」の必要性と可能性は音楽に限った話ではなく、過去の遺産を急激な勢いで食いつぶしてしまったこの国の多くの場面で言えることであろう。今の調子ではno futureだが、まだ何とかできる余地があるはずだ(と思いたい))。

 

 この連載はすばらしい!: https://gingerweb.jp/tag/imasarakotoba

 

2023年5月12日金曜日

メモ(96)

  日本語のリズムとイントネーションは諸外国語とはかなり異なっている。のみならず、声の出し方も。すなわち、日本語話者は概ねあまり口を開けずに、口先で発音しているのに対し、その他外国語話者の多くは喉の奥から音吐朗々と声を響かせる。こうした違いは、もしかしたら、物事の考え方や感じ方にも何かしら反映されているのかもしれない(もちろん、そのどちらがよいとか悪いとかいうのではない)。

 

  あらゆる意味で出不精な私にとって、世界のどこへでも平気で出かけてゆく探検家・冒険家というのはおよそ異なる思考・志向の持ち主であり、全く別の生き方をする人たちである。が、それだけに、自分には直に触れることのできない異世界のありようを垣間見させてくれ、いろいろなことを考えさせてくれる彼ら冒険家の文章を読むのは実に楽しい。

 今日もそうした本を1冊読了した。高野秀行『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル、2022年)がそれだ(https://www.shueisha-int.co.jp/publish/%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%A4%A9%E6%89%8D%E3%81%BE%E3%81%A7%EF%BC%91%E5%84%84%E5%85%89%E5%B9%B4)。同書は外国での探検に欠かせない道具たる「語学」との著者ならではの関わり方、そして、さまざまな言語自体への「探検」を語ったものなのだが、あまりの面白さにあっという間に読み上げてしまった。

 同書を読み、やはり語学は各人が必要に応じて、それにふさわしい関わり方をした方がよいと改めて強く思った。そして、小学生のときから英語学習を強制される子供の不幸に胸が痛む。今からでも遅くないから、何とかならないものか。

 

2023年5月9日火曜日

コメット・イケヤ

 寺山修司はラジオ・ドラマの脚本をいろいろ手がけているが、『コメット・イケヤ』はお気に入りの1本である:https://www.youtube.com/watch?v=5n7c5h75Ae8

私が生まれた年に放送されたもので、もちろん、そのときには聴けなかったから、後年再放送で知ったわけだ。湯浅譲二の音楽(音響効果)も実に魅力的である。

2023年5月7日日曜日

寺山修司の没後40年

  数日前の5月4日は寺山修司の40回目の命日だとか(妻から教えてもらった)。私が寺山ファンになったのは今世紀になってからなので、生前の活動をリアルタイムで追う楽しみを味わうことができなかったのは残念至極。が、遺された数々の珠玉の作品をこれからも楽しみたい。

 寺山の詩「悲しくなったときは」にはいずれ自分で曲をつけてみたいとずっと思っている。実のところすでに中田喜直がこの詩で素敵な歌曲を書いているのだが、幸い(!?)自分のイメージとはかなり異なるものなので、この願望を捨てる必要はなさそうだ。もちろん、そうした作曲はたんなる自己満足のため以外のものではありえないが、それでもよいではないか。

 

 来年、北陸新幹線が金沢から敦賀まで延びるとか。すると、これまでのように特急1本では金沢へは行けなくなる。かくして私にとって郷里はいっそう遠くなるわけだ。