2020年12月30日水曜日

メモ(27)

  音楽大学や芸術大学ではカリキュラムの中に「インターネット活用法」というものを組み込んだ方がよいと私は思う(もちろん、その前段階として「自己マネジメント」――自分に合った活動のあり方を探り、その場をつくりあげること――のための学びの機会が必要だが)。やはり使えるものは有効に活用した方がよいのであり、その術はこれからの音楽家には必要不可欠だろうからだ。そして、おそらく、そうした「術」を探る中でその成果は音楽活動自体のありようにフィードバックされることになろう。

 コロナ禍は従来の音楽(活動、生活)のあり方についていろいろな面で再考を迫っているが、インターネットとの関わりもその重要な1つだ。私はインターネットを「伝統」の破壊者だとは思わないが、さりとてそこに過大な期待を抱いておらず、とにかく、「使えるものは何でも使い、その都度、有意義な活動を繰り広げればよい」と考えている。

2020年12月29日火曜日

『遠山一行著作集』を楽しく読む

  少し前に遠山一行への関心を話題にした。その後、『著作集』全6巻を古書で購い、少しずつ読み進めている。面白い。そして、批評の確かさと鋭さにはただただ脱帽するばかり。たとえば、「前衛音楽」の創作、カラヤンやミケランジェリなどの演奏家、レコードという媒体などにおいて西洋芸術音楽の「伝統」が大きく変わり、何かが失われていることを遠山は舌鋒鋭く説くのだが、その批評は今でも十分読むに耐えるものだと思う。遠山はそうした変化に好意的ではないのだが、その理由が理路整然と述べられており、読者を自分なりの思索へと誘ってくれるものだ。それこそカラヤンやミケランジェリ、そして、「前衛音楽」に好意的な者をも。

 ただ、私には1つ、どうしても腑に落ちないというか、不思議というか、とにかく理解できない点がある。遠山の文章からは西洋の伝統との一体感、言い換えれば、そうした伝統に己がしかと繋がっている、との確信のようなものが感じられるのだが、これが私にはどうしてもわからない(し、そうした確信を自分が持つことは絶対にありえない)。たとえ西洋で学び、彼の地の人たちと交流があったにせよ、日本で人としての土台を築き、そこで日々生きている者が、なぜにそのような確信を抱くことができたのだろう? もちろん、さればこそ、遠山は一連の優れた批評を書くことができたのだろうが、とにかく私には大いなる謎である。

が、それはそれとして、私にとって遠山の批評が刺激的で、読んでいて楽しいものであることに変わりはない(武満徹の「取り巻き」たちの手になるものよりも、遠山の武満論の方が格段に説得力があるように私には思われる)。書かれている事柄にいろいろ反論・異論は浮かぶものの、とにかく「読ませる」ものであり、そして、「考えさせる」ものであるのだから(この遠山を含む、日本の音楽批評、評論の「語り」を歴史的に通覧し、日本の洋楽受容の一側面を探る研究があってしかるべきだと思うが、これは若手に期待しよう)。

2020年12月28日月曜日

アイヴズ熱、収まらず

  先日、交響曲をまとめて聴いたことで「アイヴズ熱」が高まってしまった。そこで他の作品もあれこれ楽しんでいる。今日はヴァイオリン・ソナタを聴いていたが、何よりも響きの美しさに胸を打たれた(今日聴いていたものとは異なるが……:https://www.youtube.com/watch?v=wH7gxE6Zj1E)。アイヴズの音楽といえばリズムとテクスチュアが複雑で不協和音に満ちていると思われがちで、なるほど確かにそうした面もあるのだが、音楽の少なからぬ部分は清澄な美に満ちている。ということはつまり、アイヴズは自分が書いた音をきちん聴いていたということであり、たんなる思いつきや実験であの複雑な音を書いたのではない、ということだ。

 ヴァイオリン・ソナタも今や数種類のディスクが容易に手に入り(もちろん、you tubeでも聴ける)、まことにありがたいことだと思う。が、これはやはり実演で聴いてみたい。有名曲を組み合わせて、演目に企画性を持たせれば、十分に普通の聴き手にも喜ばれる演奏会になるはずなので(「ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会」とか「モーツァルトの[……]」とかいった貧困な企画にうんざりした聴き手は少なくなかろう)、近場で誰かやってくれないかなあ。