2023年11月29日水曜日

安っぽいコラージュ作品?

  今日、たまたまラジオで次の曲を聴く:https://www.youtube.com/watch?v=BNo1LX0o4g8

これが収められているアルバムについてはこう説明されているので参照されたい:https://www.hmv.co.jp/artist_harikuyamaku_000000000561150/item_Mystic-Islands-Dub_14220119。私はこうしたものは好きではない。まるで現代アートの安っぽいコラージュ作品のように感じられるからだ。

これが録音された民謡ではなく、生演奏の民謡との絡みであったのならば、もっと違った面白さが生まれたと思う。というのも、そこには両者の間で相互作用があるからだ。ところが、DUBミックス」というものではそうはならない。それは一方的に何かを貼り付けるだけだからだ。もちろん、その「貼り付け」た結果が面白ければ問題はないし、この制作方法自体を否定するつもりは毛頭ない。が、今回のものについては私には全くチープにしか聞こえなかったのである。残念(まあ、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎず、これを楽しく聴ける人も少なからずいよう)。

それにしても、 このように既存の楽曲なり素材なりに大きく依拠した創作は、一から自分の手になる作品の場合よりも格段に優れたセンスが要求されるようだ。クラシック音楽の「現代音楽」でもコラージュ作品や「換骨奪胎」作品、「寄生」作品はあれこれあるものの、説得力を持つものはそれほど多くはない。が、中には本当にすばらしいものもあるし、ポピュラー音楽の世界でもそうしたものは当然あるはずだ(たんに私が無知なだけである)。さすがにそれを積極的に探し求める時間はないものの、何かの偶然の機会にそうしたものに出会えればうれしい。

2023年11月21日火曜日

動機のモザイクとしてのソナタ

  スクリャービンの後期ソナタで「塗り絵」をしていると、いろいろなことがわかる。たとえば、そこには動機の「展開」はほとんどない。あるのはいわば動機(あるいは、旋律や音型)の「モザイク」なのだが、それで充分音楽の持続を生み出せている。もっとも、ピアニストにとってそれはかなりの難物であろう。だが、だからこそ、うまくいった演奏(さほど多いとはいえないが……)には得も言われぬ味わいがある。

 

 音楽の「ながら聴き」には「集中的聴取」にはない面白さがある。今日、昼にうつらうつらしながらシベリウスの第2交響曲を聴いたが、それは何とも不思議な体験だった。たとえば、普通に聴いていれば短い時間しか要しない箇所であっても、半分寝ているのでなんだかとても長いものに感じられたり、あるいは、突然意識される部分がそれまでの音楽の流れと繋がりを欠いているがために全く新鮮なものに聞こえたりするなど、とにかく、まことに幻想的だったのである。 

 

 午前中にはたまたまつけたラジオでドヴォジャークの弦楽セレナードをやっていたが、つい聴き入ってしまった。何とよい音楽であろうか。  

 

 宝塚歌劇の醜聞を耳にし、ふと宮澤賢治の「猫の事務所」という話を思い出す。そこでは猫の間で虐めがあり、結局、獅子が「えい。解散を命ずる」ということになってしまうのだが、宝塚にもそんな獅子が現れればよいのに、と思ってしまう。いや、それは宝塚に限ったことではあるまい。

 なお、その物語の締めくくりは語り手の次のような台詞である――「 ぼくは半分獅子に同感です」。ここで「半分」というところがミソであろう。では、残り「半分」は? それはおそらく、こういうことではないか。つまり、「猫の事務所」での問題は当事者間でうまく解決すべき事柄であり、それを「獅子」という「外」の、しかも大きな力を持つ者がするのはあまり好ましくない、ということだ。宝塚の場合もしかり、ジャニーズの場合もしかり、そして、その他多くの場合もまた。だが、この国の歴史を振り返ればわかることだが、大変革は得てして「外圧」がもたらしている、ということだ(情けないことに)。とはいえ、いつまでもそのパタンを繰り返せばよいというものでもあるまい。

2023年11月13日月曜日

メモ(104)

  ミラン・クンデラは「ストラヴィンスキーに捧げる即興」(『裏切られた遺言』(西永良成・訳、集英社、1994年)所収)の中でアドルノの『新音楽の哲学』におけるストラヴィンスキー批判を批判している。昔々に読んだときにはそれほど気にならなかったが、今の私にはクンデラの言葉は腑に落ちる。

2023年11月7日火曜日

ぐっと読みやすく

 上の譜面はJ. S. バッハの 《平均律クラヴィーア曲集第1巻》のフーガ第24番。声部毎に色を変えた(全声部共通の黄色はタイで繋がれた(つまり、打鍵し直さない)音)。こうすると声部進行は一目瞭然。

 下の譜面はスクリャービンの第9ソナタ。赤はフラット(ここでは用いていないが紫はダブル・シャープ)、緑はシャープ、水色はダブル・シャープ、黄色は上の例に同じ。機能調性に収まらない曲や臨時記号のやたらに多い曲はこうすると格段に読みやすくなる。

 「塗り絵」と侮るなかれ。この作業をするには注意深く楽譜を読まねばならず、写経(写譜)に準ずる効果がある。とりわけバッハについては、ポリフォニーが苦手な学習者にこれをやらせてみるとよいのではなかろうか。

 なお、彩色に用いたのは三菱鉛筆の「ポスカ(極細)」。これはスグレモノだ。





2023年11月2日木曜日

スコットランド交響曲

  メンデルスゾーンの「スコットランド」交響曲は通称であって、本人が付けた名前ではないのは周知の通り。とはいえ、この曲の端緒が作曲者のスコットランド旅行にあったのは確かなので、その通称をわざわざ否定する必要はあるまい。

ちなみに、この曲はヴィクトリア女王に献呈されている。彼女はスコットランドを実質的に傘下に収めたグレートブリテン王国の後継国家たるグレートブリテン及びアイルランド連合王国の長であり、仮にそのような人物に「スコットランド」と銘打たれた作品が献呈されていたとすればかなりブラックなことであったろう。だが、もちろん、そのようなことはなかったわけであり、初版のスコアの曲名には「交響曲第3番」としか記されていない。

それにしても、この「スコットランド」交響曲は何とすばらしい作品であろうか。恥ずかしながら、その見事さを私が実感したのはそう遠い過去のことではない。たぶん、他にも世にいわれる「名曲」について、そうした見落としはいくらでもあることだろう。また、逆にこれまで自分がすばらしいと思っていた作品が実はそれほどのものではなかったと感じることも少なからず起こりえよう。まあ、それが「生きている(つまり、良くも悪くも昔の自分は今の自分と同じではない)」ということなのであろうか。