2022年8月26日金曜日

worldの単数形、複数形の違い

  米国の哲学者アーサー・ダントーの有名な論文「アートワールド The Artworld」(1964)のworldは定冠詞つきで単数形。他方、同じく米国の社会学者ハワード・S・ベッカーの名著『アート・ワールド Art Worlds』(原著は1984年、その後、2008年に増補された「25周年記念版」が出ている。邦訳は後藤将之・訳、慶應義塾大学出版会、2016年。私は今年になってから(ああ、もっと早くに原著の存在に気づいていれば……)同書のことをこの邦訳によって知った)のworldは無冠詞で複数形(訳書の題名にそのことが反映されていないのはいささか残念。まあ、日本語ではこれはなかなかに難しいが。たんに「ワールヅ」にしたのではわかりにくいし、「諸芸術界」とするのではなおよくない)。この違いはとても大きい(worldを単数形で語ろうとするのは、まさに「強い思考」の流儀である)。そして、私が心惹かれるのは断然後者だ。

 

 このベッカーの『アート・ワールド』の巻末には著者の対話が収められているが、そこでは同世代のフランスの社会学者ピエール・ブルデュー (『芸術の規則』などの著者)がいう「フィールド champ」とベッカーがいう「ワールド」の違いが説明されていて興味深い。私は以前からブルデューの議論にはどうにも馴染みがたいものを感じていたのだが、この対話を読み、その理由がわかったような気がした。

 ベッカーは自身のアプローチを「社会生活に没入する過程で発見された多くの可能性に対してオープンなもの」だとし、他方、ブルデューのものを「すでに確立された抽象的な哲学的立場の真実を先験的な考察に依拠して提示することに集中するもの」だとしている(邦訳、417頁)(もちろん、このまとめ方に対してブルデュー支持者はいろいろ言いたいことがあろうが……)。そして、私個人は前者のプラグマティズムの方に強い説得力と意義を感じている。

 

 以前ここで、音楽を「行為」として論じたクリストファー・スモールの著作『ミュージッキング』について感想と若干の不満を述べた(https://www.blogger.com/blog/post/edit/8370436117668253788/8206244448478805843)。が、そのスモール本に10年以上先立つ上記ベッカー本を読むと、スモールが論じたことがいっそう巧みに説得力のあるかたちで論じられていることがわかる(がゆえに、私はもっと早い時点でこの本を読めていれば、自分の学位論文や『演奏行為論』にも活かすことができていたであろう。残念!)。

2022年8月22日月曜日

メモ(85)

  イタリアの哲学者ジャンニ・ヴァッティモ(1936-)がいう「弱い思考」とか「エテロトピア」とかいって考え方には強い共感を覚える。

 が、それはそれとして、彼がハイデガーをかくも重んじていることの意味は私にはまだよくわからない。それはこの「大思想家」のことをあまりよく思っていないからだろうか。もしかしたら、ヴァッティモが説くような読み方をすれば、私ももう少しハイデガーを楽しめるようになるかもしれない。

 他方、ヴァッティモがアドルノの「モダニズム」を批判していることには合点がいく。私にとってアドルノはもはや完全に「過去の歴史上の人物」であって、何らアクチュアリティーを持たなくなってしまった。そのテクストは彼が生きた時代のある面を読み解くにはそれなり意味を持つものだとは思うし、彼の音楽論は今でも楽しく読めはするものの……。

 

 もっとも、どんなテクストにも賞味期限のようなものはある(これは音楽作品も同じ)。そして、ほとんどのものは、いかにすばらしいことが述べられていようとも、時代の移り変わりの中で埋もれていく。にもかかわらず、今日「古典」として読み継がれているものがあるのも確かだ。が、それは何もそうしたテクストに「不変(普遍)の真理」が述べられているからではなく、新たな時代や場でも何かしら有意義な読み方ができるものだからだろう。

 

2022年8月16日火曜日

「名曲」ゆえに距離を置く

  このところピーター・サーキン(1947-2020)の録音をあれこれ聴いている。どれもそれぞれに面白い。とりわけ深い感銘を受けたのが武満作品の演奏だ(サーキンが属するアンサンブル・タッシによる室内楽曲の演奏も見事)。今までに聴いたことがある各種のディスクの中では高橋悠治の演奏と双璧だといってもよい(そういえば、その高橋とサーキンがメシアンの《アーメンの幻視》を録音しているが、これもすてきな演奏だ)。

 今日はモーツァルトのピアノと管楽四重奏のための五重奏曲K 452を聴こうと思ってディスクを再生機にかけると、その前の収録曲であるクラリネット五重奏曲が鳴り始めた。これはいわば「ついで」だったわけだが、演奏がはじまるとたちまち魅せられてしまう。何という名曲だろう、と。クラリネットのリチャード・ストルツマンその他の演奏もさることながら、やはり作品自体がすばらしいことを今更ながらに再確認させられた次第。

 この作品に限らず、「名曲」をかなり久しぶりに聴くと、同様にその所以を実感させられることが少なくない。のみならず、以前とは違った楽しみ方ができたり、何かに気づいたりすることもまた。他方、いくら名曲でもいつも触れているとだんだんありがたみがなくなってきて、「もう、たくさん」となってしまうことが多い。もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方であり、名曲を繰り返し聴いても楽しめる人たちもいることだろう。人それぞれである。

 おっと、サーキンの演奏から話が逸れてしまった。だが、そのK 452でもクラリネット五重奏曲と同じことを強く感じる。ああ、何という名曲。そして、たぶん、これから数年はこの曲を聴くことはないだろう。(この混乱した、しかも、ますますおかしなことになりそうな世の中をまだ当分の間は自分なりに生き抜いて)再びこの名曲を心から楽しむために。

2022年8月9日火曜日

ケージの《Two4》を楽しむ

  今日はジョン・ケージがヴァイオリンとピアノ(もしくは笙)のために書いた《Two4》(1991)を聴いていた(次にあげたのは手持ちのCDと同じ録音。ただし、全部で3つの部分のうち最初の部分のみ:https://www.youtube.com/watch?v=vIWqvIQ_CE0)。何とも美しい音楽であり、心が落ち着く。

 もっとも、これを演奏会で聴きたいとは思わない。こうした音楽にとって普通の演奏会場はいろいろな意味で窮屈すぎるからだ。座席は狭くてほとんど身動きできないし、うっかり物音でも立てようものなら……。むしろ、外の音が聞こえてくるような場所で、座席などもなく、自由に出入り(あるいは通り抜け)できるようなところが好ましい。

 が、それはそうそうかなうことではないので、自宅でCDを聴く。息を詰めて一音も聞き逃さぬようにする……などといったふうにではなく、もっとゆったりとした気持ちで、聴き方の「ムラ」など気にせずに。