2024年3月25日月曜日

第251回クラシックファンのためのコンサート:中野慶理ピアノ・リサイタル

 「クラシックファンのためのコンサート」というNPO法人がある(https://classicfan.jp/?page_id=37)。そこが主催する演奏会シリーズの通算第251回目に中野慶理先生が出演されるので聴いてきた(321日、於:大阪倶楽部会館4Fホール。なお、先生はこれまでにもこのシリーズに何度も出演されているとのこと)。

 演奏会は1時間ほどのコンパクトなものなのだが、個々の曲に先立って演奏者によるトークもあり、この会場(https://osaka-club.or.jp/guidance-room/)ならではの雰囲気も相俟って、まことに充実した時間だった。演目は次の通り:

 

 ドビュッシー(ボルヴィック編):牧神の午後への前奏曲

 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第27番ホ短調 op. 90

 ブラームス:4つの小品 op. 119

 草野次郎:「宵待草」の主題によるパラフレーズ

 

 この日もっとも楽しみにしていたのが最初の演目《牧神の午後への前奏曲》。言わずと知れた管弦楽の名曲だが、それを中野先生がピアノで弾くとなれば、何かを期待せずにはいられないではないか(しかも、自分が音楽の道へ進むことを決意させたのがこの曲だったと先生が演奏前に語っただけに、なおのこと)。そして、実際、すばらしい演奏だったのだが、聴きながら、それがどんな楽器によって奏でられているかなどはほとんど気にならず、音楽自体がストレートに迫ってくる心地がした。名曲、名演。

 続くベートーヴェンとブラームスの曲について、中野先生は演奏前に独自の解釈=物語を披露してくれたが、いずれも「なるほど、そういうふうにも音楽を読み解けるものなのか」と唸らされる(こうした「物語」で示される想像力の豊かさは先生の演奏の魅力と無関係ではあるまい)。もちろん、演奏自体にも。とりわけ心惹かれたのはベートーヴェンのソナタ、とりわけ、いわばピアノによる「リート」たる第2楽章だ。そのときに覚えた幸福感は筆舌に尽くしがたい。

 最後の演目の魅力について先生は熱く語っておられたが、演奏はそれを立証する見事なものだった。加えて、この曲にとっては今回のようなこじんまりした、親密な雰囲気の漂う会場も大いにプラスに作用したことだろう。ともあれ、ここでもやはり幸せな気分に浸ることができたわけで、作曲者(随分前に、この方の《管弦楽のための協奏曲》を実演で聴いたことがある。中身は忘れてしまったが、佳曲だったと記憶している)に感謝。

 

 中野先生の演奏はいつ聴いても何かしら発見があり、充実感と幸福感を味わうことができる。先生、今回もどうもありがとうございました。

2024年3月16日土曜日

日々のつれづれ

  このところ「ピアニスト・ラフマニノフ」の録音を改めて聴き直している。言うまでもなく作曲家として偉大な彼だが、ピアニストとしても20世紀屈指の存在だ。その凄さは「作品の解釈者」としてのものというよりも、「創造的なパフォーマー」としてのものであり、こうしたものに馴染んでしまうと、ますます演奏会から足が……(もちろん、「これは!」と思うものがあれば、躊躇せずに出かけたいが)。

 

 日本語で読めるプロコフィエフ関連本はごく限られていた(というよりも、ほとんどない、という方が正しい)が、最近、好著が出た。それは菊間史織『プロコフィエフ』(音楽之友社、2024年)である(https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?id=221900)。彼の生涯と音楽のありようが新しい情報に基づいて手際よくまとめたられているのみならず、読み物としてもよいので、ファンには強くお勧めしたい。

 そのプロコフィエフの第8ソナタを今勉強中。新年度からそれを取り上げる学生がいるからだけではなく、自分でもこの作品のことをもっとよく知りたいと思ったからだ。そこで、楽譜に「塗り絵」をした上でピアノに向かって音の感触を耳と指で味わっている。なかなか先へは進まないが、それでもまことに楽しい。このプロコフィエフに限らず、他の作曲家の作品についてもこのところそうした楽しみ方をしているので、ますます演奏会から足が……。

 

 今年はシェーンベルク・イヤーだが、他の作曲家のように作品をまとめたCDボックスが出るということは今の時点ではないようだ。やはり、彼の音楽はいまだに普通の聴き手にとっては馴染みがたい「現代音楽」なのだろうか? 

2024年3月9日土曜日

小菅 優 いずみ室内楽シリーズ Vol.1 祈り

  昨夜は大阪のいずみホールで「小菅 いずみ室内楽シリーズ Vol.1 祈り」を聴いてきた。近年すっかり演奏会から足が遠のいている私でも「これは聴きに行かねば!」と思わされるプログラムだったからである。その期待を裏切らないまことに充実した演奏会だった。

この演奏会の主題は「祈り」(https://www.izumihall.jp/schedule/20240307)であり、演目は次の通り:

 

C. サン=サーンス:祈り op. 1581919

L. ブーランジェ:哀しみの夜に(1917-18

0. メシアン:多くの死(1930

時の終わりのための四重奏曲(1940

 

いずれも20世紀前半、精確に言えば第1次大戦中から第2次大戦中までの間にフランスの作曲家が書いた作品だが、演奏会のコンセプトがはっきりと伝わる選曲であり、作品の内容、演奏ともにまことに聴き応えがあった。

 どの作品、演奏にもそれぞれに心惹かれたが、やはり四重奏曲が圧巻。メシアン作品の演奏にはともすると耽美的なだけのものになりかねない危険があるが、今回の演奏はそうではなく、いろいろな面で並外れた、そしてしばしば異様でさえある作品世界を見事に現出させていたように思われる。とりわけ第67曲での錯乱には震撼させられたし、第3曲でたった1本のクラリネットが描き出す世界の広さと深さにはただただ圧倒される。他の曲の演奏もすばらしく、全曲を通じて実に濃密な「時」を過ごすことができた。

 サン=サーンスは大好きな作曲家なのに実演で触れることができるのはごく限られた作品だけなので、録音でしか知らなかったものがこのように生で聴けるのはうれしい。よくぞこの曲を選んでくれたものだ。

 ブーランジェの《悲しみの夜に》は初めて聴いたが、ホ(短)調の暗く悲しみに満ちたトーンの音楽が終わりにつかの間明るくなるものの、最後の和音がそれをいわば打ち消すようなものになっており、作曲者の「悲しみ」の深さを思って胸が痛む。が、それはそれとして、改めてこの夭折の作曲家への興味は深まるばかり。

 メシアンの《多くの死》は録音で知っていたものの身を入れて聴いていたわけではなかったので、今回の演奏によってその魅力を教えられた。

 ともあれ、この企画、演奏ともにすばらしい演奏会を聴かせてくれた音楽家の方々、そして運営に関わった方々に心からの御礼を。どうもありがとうございました。なお、この演奏会シリーズはあと2回あり、主題はそれぞれ「愛」と「希望」だとのこと。今回の演奏会のすばらしさを思えば、当然、期待せずにはいられない。

2024年3月1日金曜日

中野慶理先生の退任記念演奏会

  今日は中野慶理先生の退任記念演奏会を同志社女子大学で聴いてきた。言うまでもなく、すばらしかった。演目は次の通り:

 

 ショパン:ポロネーズ=幻想曲 作品61

 スクリャービン:エチュード 作品21425812、ソナタ第2

 

 スクリャービン:ソナタ第10

 ラフマニノフ:〈舟歌〉作品103、〈V. R. のポルカ〉

 リスト:《慰め》第3番、《ハンガリー狂詩曲》第2

 

先生が得意とし、打ち込んできた作曲家の作品がまことに効果的な順番で奏でられるとなれば、魅せられないわけにはいかない(どの演目も見事だったが、とりわけ心惹かれたのはスクリャービンの作品425だ。これまでホロヴィッツの1953年の録音が私にとっては最高の演奏だったが、中野先生の演奏は表現のありようこそ異なりこそすれ、それに匹敵するものに思われた。しかも、録音ではなく実演なのだから感動もそれだけ深い)。

 が、それはそれとして、今日はこれまでの中野先生の演奏から受けるのとは些か異なった感動があったので、そのことを述べておきたい。それは最初の演目のショパンでのこと。妙なる響きに耳を傾けるうちに胸中にわき起こってきたのは、遙か昔、ピアノ音楽を聴き始め、自分でも弾き始めた頃に味わったような感覚だった。当時はそれこそ何を聴いても弾いてもすべてが新鮮で輝きに満ちており、胸の高鳴りを覚えずにはいられなかったが、その何とも幸せな感じ――いろいろな経験を積む中に次第に薄れていったもの、いわば「失われた時」――が俄に蘇ってきたのである。そして、それは演奏会の最後まで失われなかったのだ。

 というわけで、そうした幸せな感覚をもたらしてくれた中野先生に心から御礼を申し上げたい。なお、今月は先生の演奏会をもう1つ別に聴かせていただく予定があるので今から楽しみでならない。