2023年9月30日土曜日

中瀬古和 没後50周年レクチャーコンサート

  今日は次の演奏会を聴いてきた。以前から楽しみにしていたものだ:https://choruscompany.com/concert/230930nakasekokazu/。中瀬古和(1908-73。その経歴については前記リンク先を参照)の名前こそ知ってはいたものの、作品に触れたのは今回が始めてである。それだけに若干の不安もあったものの、とても楽しく聴くことができた。レクチャーも懇切丁寧でよかった。

 最初のピアノ曲を聴いたときに感じ、最後のヴァイオリン独奏曲に到るまでその感じ方でずっと変わらなかったことがある。それはつまり、作曲者の自己顕示欲のなさだ。普通、「創作」に携わる者は、大なり小なり、自分の中にある何か、「人が何と言おうと、とにかく自分は……」というものを外に示したいとの欲求を持っている(さもなければ、古今の数多ある名作を前にして、わざわざ自分の作品をそこに加えようなどと思えるはずもない)。ところが、今日の中瀬古の作品にはそうしたものがほとんど感じられなかったから驚く。しかも、だからといって、決してありきたりの音楽ではなかった。そして、その「清澄さ」には胸を打たれずにはいられなかった。

 ところで、中瀬古の音楽には対位法がいろいろと駆使されているにもかかわらず、露骨にそのようには聞こえない。決して単純なホモフォニーではないものの、ポリフォニー音楽ともどこか異なる風情が感じられるのだ。また、主題や素材が緻密に展開されているわけではなく、まるで連歌のように緩やかな繋がり(中心となる音も1つではない)でもって音楽が繰り広げられているように聞こえた。こうした中瀬古の音楽のありようを「日本的」というとすれば些か単純すぎようが、とにかくそこにはたんなる西洋音楽のコピーではない、何かしら独自の工夫があるのは確かであろう。

 本日取り上げられた作品はどれも聴き応えがあった。声楽曲はいずれも聖書の詩篇がテキストだったので、クリスチャンではない私には隔靴掻痒なものであったが、これらを信者として歌い、聴ける人の喜びはなんとなくわかるような気がする。また、弦楽四重奏曲第2番(ということは第1番もあるわけだろう。是非とも聴いてみたいものだ)での種々の「遊び」も忘れがたい。そして、最後に演奏された《ヴァイオリン独奏のためのムーヴメンツ》の飄々としたありようには本当に魅せられた。というわけで、本日の催しの企画運営者、演奏者、そして、今は亡き作曲者に心からの御礼を。

2023年9月27日水曜日

『判断力批判』の新訳

  今日大学に行く途中で寄った本屋で、中山元訳のカント『判断力批判』が出ているのを見つけた(https://www.kotensinyaku.jp/books/book383/)。「ついで出たか!」と思い、手にとってぱらぱらとめくってみる。以前購った(かなり高価だった!)もののあまりにけったいな日本語に呆れて処分した某氏の訳書よりは格段に読みやすそうだった。さて、実際にはどうだろうか(現時点で1つだけ気になったのが、'schöne Kunst'という語を「美しい芸術」と訳していたことだ。これでは「馬から落馬する」のと同様な言い方に感じられる)。そのうち読んでみたい。

 

 子供に「変奏曲」というものを説明するのにこの譬えは……(次の動画の4’57”あたりから):https://www.youtube.com/watch?v=Uw-ZnLS-XNg)。面白いのは確かだが、かなりブラックだなあ。これを観た子供の感想を聞いてみたいものだ。なお、その後で青島氏が弾くピアノはまさに「作曲家のピアノ」であり、聴いていて楽しい。

2023年9月23日土曜日

分析方法の射程外

 ドビュッシーの《前奏曲集 第1巻》の第2曲〈帆〉について、島岡譲・他『総合和声――実技・分析・原理』(音楽之友社、1998年)ではその和声構造を次のように分析している:

 


 (同書、479頁)

なるほど、確かに機能和声の観点から分析すればこのようになるのかもしれないが、それで本当に音楽の実質をとらえたことになるだろうか?

 私はそうではないと考える。というのも、実際にこの曲を聴けば、何か違ったふうに感じられるからだ。まず、ACの保続低音たる変ロ音はこの部分の響きを支える土台として十分安定性を持っており、ドミナント和音の根音――すなわち、主音への解決を期待させる音――などには感じられない。しかも、そもそもA(C)とBではモードが異なるわけで(AC)は全音音階、Bは5音音階(であって、変ホ調ではない。だからこそ、この部分は♭5つになっているわけだ)。前者はその浮遊感に意味があるのであって、それは何らかの解決を必要とするものではない)、その変化を「ドミナント→トニック→ドミナント」ととらえるのは無理があるのではないか。にもかかわらず、そのように分析してしまうのは、「機能和声」の図式を前提にこの曲を見ているからだろう。だが、それではこのまことにユニークな音楽の肝心の部分を見損なってしまうのではなかろうか。

 『総合和声』の分析・理論面での記述は調性(機能和声)音楽のありようをとらえる上でまことに役に立つ優れたものだと思う(この部分だけ切り離して、用語や言葉遣いをもっと平易なものとして出版すれば、演奏系の学生に歓迎されるのではなかろうか)。が、このドビュッシー作品についていえば、選曲ミス、すなわち、同書の分析方法の射程外にあるものであろう。 まことに楽曲分析というのは難しいものである。

2023年9月21日木曜日

『青島広志の東京藝大物語』

  『青島広志の東京藝大物語』(夕日書房、2023年:https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784334990152)をご近所図書館で借りて読んだが、なかなか面白かった。著者はすでに『作曲家の発想術』(講談社現代新書、2004年)で自身の来し方について少なからず語っているが、今回の『物語』はいっそう充実した(!?)内容を持つ。あまりに狭い特殊な世界を描いたものだけに読者数はかなり限られるかもしれないが、「人間的な、あまりに人間的な」種々のエピソードを私は楽しく読んだ。そして、このように愛憎入り乱れる話を一見淡々とした、だが、時折情念の炎を垣間見させる筆致で描き出し、最後まで一気に読ませる著者の筆力には感服した。

 なお、同書では実在の登場人物が「仮名」で呼ばれているが、日本の作曲界にある程度通じた読者にとってはこの仮名はあまり意味を持つまい。多くの人物について本名の察しがすぐにつくからだ(たとえば、「森揮一」など。この超一流の音楽家についてはいくらか辛辣に描かれているが、それを読んでも私は少しも驚かず、むしろ、「さもありなん」と思った。逆に驚いたのは「六森利忠」と名付けられた人物のことである。私は以前、たまたまこの人のブログ――もちろん、実名でのもの――を読み、篤実な音楽理論家だと思っていたのだが、著者の言うことが本当だとすれば、なかなかに難儀な人のようだ)。にもかかわらず著者が仮名を用いたのは、ギャグやカリカチュアとしての効果を狙ったからであろうか?? 

2023年9月18日月曜日

今日も懲りずに

  少年時代、ピアノに向かっていたときは、きちんと練習することはほとんどなく、もっぱら興味関心のある曲を好き勝手にかじっていた。とにかく指で音を辿ってゆき、それが済んだら別の曲に移る、というふうに。おかげで多くの作品を身をもって知ることができたし、読譜力(+初見力)はついたが、ピアノの弾き方は身につけ損なった。

 今でも懲りずにいろいろな曲に鍵盤上で触れているが、聴くだけでは味わえない楽しみや喜びがあるので、これは一生止められまい。今日もメシアンの〈喜びの精霊の眼差し〉の数小節に「触って」いたが、ごてごてしていながらも透明感のある和音が持つ異様なテンションと官能性に陶然とした。

 

 ごもっとも:https://news.yahoo.co.jp/articles/c10ad3953cb5769bb407a66ba113b25c73f0b7ce?page=3

 

2023年9月12日火曜日

中野慶理ピアノリサイタル

  「この曲でまだこんなことができるのか!?」――よく知っているつもりの名曲の数々でそんな驚きを随所でもたらしてくれるとともに、個々のドラマを存分に味わわせてくれたのが昨晩催された中野慶理先生のピアノ・リサイタルである(於:いずみホール(大阪))。

 演目は次の通り:

 

ショパン:舟歌 嬰ヘ長調 op. 60

       夜想曲 ロ長調 op. 621

       バラード 4 ヘ短調 op. 52

       ポロネーズ 7 変イ長調「幻想ポロネーズ」op. 61

 

ドビュッシー:前奏曲集 1

 

もちろん、オーソドックスな演目だとはいえ、すべてをしかるべき水準の演奏で聴かせるのはそうたやすいことではない。が、この日の演奏はそうしたことに留まるものではなかった(以下、敬称略)。

 まず、驚きの例を1つあげよう。それは演奏会後半に弾かれたドビュッシーの《前奏曲集 第1集》の第1曲〈デルフィの舞姫〉冒頭でのことだ。下の譜例(初版)にあるように、ここにはペダル記号が記されていない。

 

 


 

が、ここではペダルを用い、1拍毎に踏み換えて弾くのが普通である(作曲者自身のピアノ・ロールでの演奏でもそうなっている)。だが、そうなると、4分音符の和音にあるスラー付きのスタッカートの意味がかなりのところ失われてしまう。というのも、それは和音の弾き方――打鍵の際のニュアンス――には反映されはしても、その後にペダルのために音が保持されてしまうからだ。ところが、中野はここでペダルを拍の終わりまで踏み続けず、和音の保持を適度なところで切り上げていたのである。それはまさに「スラー付きのスタッカート」であり、これが従来の弾き方よりもいっそう鮮明に浮かび上がった真ん中の旋律を包み込むのだ。 

 こうした「驚き」がこの日の演奏では数多くあり、しかもそのいずれもがしかるべき効果をあげ、音楽として説得力を持っていたのであり、そのこと自体がまた驚きであった。それは当日のすべての演目について言えることだが、とりわけドビュッシー作品について強くそう感じた。そして、そうした見事な解釈を示した中野の演奏に圧倒されるとともに、それを可能ならしめた作品の懐の深さに感じ入った次第。

 さて、この日の演奏でもう1つ、感銘を受けた点がある。それは「無駄な山場がない」ことだ。ラフマニノフは楽曲には「1つのポイント」があり、それを演奏はとらえなければならないと述べているが、中野の演奏はまさにその好例だと言えよう。そのことがよくわかるのが、前半のショパン作品だった。どの曲にも複数の小さな山場があり、それをある程度は盛り上げないことには音楽はつまらなくなってしまう。が、それをその都度弾き手がいい気分になって盛り上げすぎてしまうと、本命の山場、頂点の効果が大きく損なわれることになる。そして、少なからぬ演奏家がこのミスを犯してしまう。その点、中野の「音楽ドラマ」の語り口はまことに巧みであり、聴き馴れた作品で新鮮な感動をもたらしてくれた。のみならず、4つの曲が1つの大きなドラマであるかのように感じられ(もしかして、そうしたことを意識して選曲し、演奏がなされたのかもしれない。たとえば、最初の《舟歌》などでは、まさに「序」の性格を私は感じたが、もし、この曲が冒頭に置かれなかったのならば、たぶん、もっと違った演奏解釈を中野はしたのではなかろうか?)、ポロネーズの最後の和音が鳴り響いた瞬間、大きなカタルシスを覚えずにはいられなかった。

 ともあれ、今回も本当にすばらしい音楽を聴かせてくださった中野先生には心の底から感謝したい。どうもありがとうございました。

2023年9月3日日曜日

《平均律クラヴィーア曲集》の自由さ

  J. S. バッハの《平均律クラヴィーア曲集》のフーガを見ていると、その自由なありように胸を打たれずにはいられない。よくもまあ、あれだけ多種多様なフーガを、しかも、そのどれもが生き生きとした音楽を書けたものだ。というわけで、このところこの曲集に改めて親しんでいるが、とにかく面白く、楽しくて仕方がない。
 ところで、そうした「自由な」音楽のありようゆえに、ときには譜面の読み取りが難しいフーガにも出くわす。たとえば、中声部がかなり長きにわたって交差するのみならず、その一方が休止になる場合など、油断すると声部の取り違えをしてしまう(アルトの音域にあるものが実はテノールだったりするわけだ)。そこでそれを防ぐ手として、声部毎に異なる色鉛筆で書き込みをするという手がある。具体的には、(1)全部の音符に色を塗ると見苦しいので、タイとその繋ぎ先の音符にのみ色を塗るようにする(こうすると、そこを弾き直さなくてよいことが瞬時に見て取れる)。また、必要に応じて休符にも色をつける(こうすると、長い休みの後の「入り」がわかりやすくなるし、声部が錯綜する場合も見やすくなる。(2)ただし、交差などで声部の見通しが悪いところについてはその部分の音の動きを線でなぞるようにする――たったこれだけのことで、随分音楽の見通しがよくなるはずだ。バッハの読譜に苦労している方は是非お試しあれ。

 


 (上にあげたのは《平均律》第1巻第12番の4声フーガ。ソプラノに赤色、アルトに水色、テノールに緑色、バスにオレンジ色を用いている)

 

このところ、野中広務(1925-2018)の回顧録や、彼について書かれた本を読んでいるが、この人はまこと立派な政治家だったのだなあと認識を新たにした(それに比べて昨今の政治家たるや……)。この野中に限らず、過去のいろいろな政治家本人の回顧録や評伝を読むとわかるのは、戦争を体験、それも主体的な判断のできる(肉体面ではなく精神面での)大人として体験していることが政治家としてのありように大きな影響を与えていることだ。国家権力が舵取りを誤るといかに悲惨なことになるのかを彼らは身にしみてわかっている。それだけにその運用にはある面では慎重だった(では今は?)。