2025年6月24日火曜日

一長一短

  ラジオをつけると、J. S. バッハの《ゴルトベルク変奏曲》の弦楽三重奏版をやっていた。久しぶりにこの編曲を聴いたが、なるほどこれはこれで面白い。が、原曲の持つ「スリル」が少なからず失われているようにも感じられる。確かに三重奏だと「1人1パート」なので声部がはっきり分離して聞こえるのみならず、原曲では至難のパッセージも何とも軽々とこなされている。他方、原曲、とりわけチェンバロのように鍵盤が2段ではないピアノではなかなかそうはいかない。しかしながら、難所を演奏者がいかに巧みに切り抜け、ポリフォニーを鮮やかに弾きこなすかという点は、この作品の重要な聴きどころの1つではなかろうか。

  もちろん、弦楽三重奏版にもそれなりのよさはあるし、たまに聴くと楽しい。が、どうせならばもっと大きな楽器編成であれこれ工夫した編曲があってもよいとも思う。

 

 演奏系の学生にとって音楽理論はとても重要ではあるが、中途半端に和声や対位法の実習を課すくらいならば、楽曲分析をきちんとできるようにさせる方が格段に有益であろう。

 

2025年6月22日日曜日

西洋音楽の作曲家の手になる「現代邦楽」曲への疑念

  NHK-FM「現代の音楽」で先週と今週、久保田晶子(薩摩琵琶)の「那由多の月」と題した演奏会を聴く。演目のほとんどは新旧の「現代邦楽」曲であり、最後に古典曲が取り上げられた。もっとも深い感動を持って聴けたのは最後の演目であり、「現代邦楽」曲はそれに比べれば今ひとつ面白くない(が、間宮芳生の《奥浄瑠璃「琵琶に磨臼」》と武満徹の《エクリプス》はそれなりに楽しかった)。その理由はおそらく、薩摩琵琶という楽器(ひいてはその背後にある音楽の「伝統」)を作曲者がうまくつかいこなせていないからであろう。多くの曲では薩摩琵琶の音はたんなる「素材」や「効果音」に留まるものであり、わざわざこの楽器を用いなくてもよいのではないかと思わされるものであった。もちろん、邦楽器のために新しい作品が書かれるのはまことにけっこうなことであるし、その中から名曲が生まれることへの期待は私にもある。が、たぶん、そうしたものは「伝統」をしかと身につけた邦楽器の演奏家自身が作曲した方がもっとよい結果を生むのではないだろうか。もちろん、西洋音楽の作曲家が邦楽器の作品に挑戦して悪いというのではない。が、その場合、自身がすでに西洋音楽で行っているのと同様に、当該楽器(やそれに類する楽器)の(「歌」を含む)演奏その音楽の伝統的な様式をある程度身につけてからにした方がよかろう。

2025年6月19日木曜日

ベアトリーチェ・ラナのバッハに魅せられる

  今朝のFMでベアトリーチェ・ラナが弾くバッハの協奏曲を聴く。とてもよい感じだった:https://www.youtube.com/watch?v=WC5GjWN5LJQ

このピアニストの演奏は手持ちのラヴェル・ボックスやストラヴィンスキー・ボックスに収められていてので耳にしてはいたのだが、特に注意を惹く演奏ではなかった。が、今日のバッハはそうではなく、はつらつとした「生」の躍動にぐっと引き込まれてしまう。それゆえ、これからこの人の演奏をもっといろいろ聴いてみたい。

 私は自分で積極的に未知の演奏家や作曲家を見つけようとすることはなく、概ね「たまたま」の出会いを待っている。だから、知らずにいる人の方が多いことだろう。が、何が何でも聴かなければならない作曲家や演奏家などそうそういるわけでもないので、これでよいと思っている。もちろん、ときには「聴き逃し」を後悔することもないではないが、仕方がない。人生の時間は限られているので、あれもこれもというわけにはいかないからだ。「ご縁がなかった」ということで。

2025年6月17日火曜日

独唱の演奏会を聴きに行くことはあっても

  私の場合、独唱の演奏会を聴きに行くことはあっても、合唱の演奏会に足を運ぶことはまずない。それは合唱という演奏形態は基本的に自分が参加してこそ楽しめるものだと思っているからであり、それゆえに客席でただ聴くだけの身としてはある種の疎外感を覚えてしまうからだ(とりわけ、母語の日本語による合唱曲の場合)。

ただし、柴田南雄の一連のシアター・ピースはやはり演奏会場で聴きたい。その稀有の演奏効果は録音では十分に味わえないものだからだ。それに加えて、そこで聴かれるものの大半が「歌」ではなく総体としての「音響」だからということもある。「音響」ならばひたすらそれに耳を傾けるしかなく、疎外感を覚えることもない。

自分でも合唱に参加してみたい名曲はいくつもあるが、ベートーヴェンの第9もその1つ。果たして自分は生きているうちにその機会に恵まれるだろうか。  

  

 インターネットの記事の見出しに「謎に満ちたイラン」というものを見つけたが、イスラエルだって十分に「謎」な(ただし、ある面ではとてもわかりやすい)国であろう。ともあれ、今回の件が大きな戦争に繋がらないことを祈るばかり。

 

  

2025年6月11日水曜日

最近、耳について離れない一節

  ごく最近たまたま聴き、それ以来、耳について離れない曲がある。それは次のものだ:https://www.youtube.com/watch?v=j0TI4p5bNls。ご存じ(といっても、ある世代より下の人にとってはそうではないかもしれないが……)永六輔・いずみたくコンビの名曲である。が、よく聴くと歌詞がおかしい。元は「ババンババンバンバン」なのに、ここでは「ババンババンバンバンパイア」なのだ。そして、まさにここに私ははまってしまったのである。馬鹿馬鹿しいが面白いのだ。

 さて、この妙な歌詞の新ヴァージョンだが、それは何と映画の主題歌だという(https://movies.shochiku.co.jp/bababa-eiga/)。そして、こちらのストーリーもまた馬鹿馬鹿しいが面白そうである。ああ、こちらも気になる。 


2025年6月9日月曜日

前回のエコー

  ジョン・ケィジの音楽(とりわけ、偶然性・不確定性以後のもの)を聴いているときに何か他の音が聞こえてきてもあまり気にならない。他方、モートン・フェルドマンの場合にはそうはいかない。前者の音楽の多くとは異なり、後者の音楽は完結した「作品」だからだ。しかも、それはほとんど弱音に終始するので、ちょっとした物音が大きな障害物になってしまう。

それゆえ、そうしたフェルドマン作品を聴くには演奏会場か、周りの音を遮られるリスニング・ルームが好ましいということになろう。だが、私の近場でフェルドマン作品を取り上げる演奏会はほとんどない。仮にあったとしても、後期の長大な作品のうち、2時間以上のもの(中には5時間を超えるものも)については会場の狭い座席でほとんど身動きできずに聴きたいとは思わない。また、自宅には完備したリスニング・ルームも(世の多くの聴き手同様)ない。というわけで、多少の物音はがまんしつつ、長すぎる作品の場合には適度に休憩を挟んで私はフェルドマンの音楽を聴いているわけだが、それで十分満足している。 

2025年6月6日金曜日

モートン・フェルドマンの音楽を久しぶりに楽しむ

  日頃はほとんど見向きもしないのに、時折無性に聴きたくなる作曲家が何人かいる。モートン・フェルドマン(1926-87)もその1人。一昨日もその作品で得も言われぬ至福のひとときを味わった(手持ちのCDで聴いたのは次のものだ:https://www.youtube.com/watch?v=SEzPYIkfYOk&list=OLAK5uy_kCEB0ygO5JcQ7TJ5tkpODK9Dd7Nrl3qMA&index=2)。

 先日たまたま大学の図書館でフェルドマンを論じた本を見つけて読んだのが随分久しぶりに彼のディスクと取り出してきたきっかけである。その本とは高橋智子『モートン・フェルドマン――〈抽象的な音〉の冒険』(水声社、2022年。http://www.suiseisha.net/blog/?p=17380)。フェルドマンについて日本語で読めるものでこれだけまとまった内容を持つものはなく、彼の創作と思考の軌跡がよくわかる良書である。フェルドマン・ファンはもちろん、この点の音楽に興味のある方にはお勧めの1冊だ(私もいずれ購いたい)。これを読み、フェルドマンの音楽に久しぶりに触れてみたくなったのである。そして、やはり彼の音楽はすばらしかった。

 が、前掲書で知ったフェルドマンの「思考」には正直あまりぴんとこなかった。それが彼の音楽から生々しく感じ取られることとあまり一致しているようには聞こえなかったからだろうか。こうした「理論」と「実践」の不一致はフェルドマンの場合に限ったことではなく、少なからぬ「現代音楽」の作曲家について言えることである。が、実のところ私はそのこと事態はあまり気にならない。なぜならば、たとえ理論がどうであろうと、書かれた作品がすばらしいからだ。

 もちろん、そうした「すばらしさ」の内実は聴く人によってかなり違ったものになるだろう。とりわけ、フェルドマンのような音楽の場合には。だが、その音楽のありようを探る際に、敢えて自分や他者の聴体験を出発点とするというのも1つの手としてありうるのではないだろうか。