2020年4月11日土曜日

「新世界」の音楽が聴きたくなるとき

 昨日話題にしたアイヴズの音楽にはいきなり別の音楽の「乱入」してくる場面が少なからずある。19世紀までの音楽にも「引用」はあるが、その場合にはその引用楽句が元の音楽にきちんときれいに収まるように整えられている。ところが、アイヴズの場合はそうではないことが実に多い。そして、その結果、全体がしばし混沌に陥るのだが、そのことで音楽の流れは何ら乱れることなく、どんどん進んでいく。何ともおおらかではないか。
 このように何でも受け入れてしまうアイヴズの音楽を生んだ精神風土があればこそ、ジョン・ケージのような人も出てきたのだろう(両者の近さをかつて近藤譲が指摘している)。そして、彼らの音楽を聴くとき、私は得も言われぬ開放感を覚える。もちろん、すべてが堅固かつ見事に構築されたベートーヴェンのような音楽にも大いに魅せられるものの、時折、そうしたものから逃げ出したくなりもするのだ。そして、そのようなとき、また、それに限らず何か閉塞感を感じるとき、アイヴズやケージなどの「新世界」の音楽が理屈抜きに胸にしみる。