2020年4月16日木曜日

メモ(3)

 「音楽作品の存在論」という問いはまだ有効だろうか? あるいは、「音楽作品の同一性」という問いは? 後者については「著作権」を管理・行使する(したい)人たちはこの問題への(暫定的なものではあっても、その都度)明確な解答を切実に必要とするだろう。が、それ以外で音楽作品に何らかの関わりを持つ人たちにとってはどうだろうか?
 たとえば、ある作品を演奏するなり聴くなりする場合に「解釈」ということが問題になってくる。そして、その際には解釈の妥当性が問われることになる。すると、そこに「存在論」の出番があるように見えなくもない。つまり、「『作品』の『何』が解釈されるべきなのか」(言い換えれば、「作品の解釈で保持されるべきものは何なのか」)ということが解釈に際しては問題になってくるからであり、そうした問題はまさに存在論の領域に属するものだからだ。
しかしながら、存在論がなしうる「説明」は「解釈」の実践のありようを知的に理解したい(少数の)人たちにとっては意味を持つかもしれないが、(多数の)実践の当事者にとってはほとんど意味を持たないだろう。というのも、実践者は先にあげたような問いに対して具体的な実践でもってその都度答えを出(そうと)しているのであって、その際にわざわざ存在論なるものを経る必要などないからだ。もちろん、そうした「実践」の中には自他の活動への言及行為も含まれているが、それはあくまでも具体的なものごとのありよう(すなわち、「存在者」)に関することであって、それとは水準を異にする「存在」に関することではない。
では、「音楽作品の存在論」という問いをそうした実践者にとって有益なものたらしめる方途はあるのだろうか? それともそんなものはないのだろうか?

 古い歌が今でもリアリティーを持っている:https://www.youtube.com/watch?v=yLGMBlE2h_I