2020年4月3日金曜日

作品の「解釈」

  西洋芸術音楽の演奏行為の中心をなすのは「作品の解釈」である(この問題は拙著『演奏行為論』で論じたので、未読の方は是非、ご覧あれ)。そして、そこで読み解かれ、実現されるべきだとされているのは「作曲家が作品に込めた意図」、あるいは「作曲家が思い描いた作品の理想像」である。いずれにせよ、そこでは「作曲家」と「作品」の結びつきが前提とされている。
 しかし、次のような考え方もある。それはすなわち、「作品というのはもはや作曲家の手を離れた独立した存在であって、必ずしも作曲家の意図に縛られるものではない」というものだ。もちろん、これは「それゆえ、演奏家は作品を好き勝手に扱ってもよい」ということなのではない。この場合には、あくまでもその作品が持つ――作曲家自身ですら気がつかなかったような――意味を読み解き、実現することが演奏「解釈」には求められるのだ。それは言い換えるならば、作品の中に(作曲家には縛られない)「理想像」を発見し、実現することである。
 そして、この両極の間には「作曲家」と「作品」の結びつきをどのレヴェルでどの程度認めるかによって多様な考え方がありうる。つまり、「解釈の(結果の)多様性」を考える以前に、「解釈(というものについての考え方)の多様性」という問題があるわけだ。それゆえ、私もいずれ改めて作品「解釈」の問題について再度考えてみたい(ただし、その際には理論的な問題――哲学・美学の「解釈学」の問題はまことに興味深いものではあるが……――に過度に深入りしないように気をつけて、あくまでも演奏の実践や現実との関わりを見失わないようにしなければなるまい)。