2020年4月12日日曜日

《タイタニック号の沈没》

 ギャヴィン・ブライヤーズ(1943-)の《タイタニック号の沈没》(1969-)は曲名通り、あの惨事に想を得た作品であり、何度か録音されており、そのたびに姿を変えている(ので、上記のように作曲年を示した)。その主要な素材をなっているのは同船の楽団が最期まで奏でていたとされる賛美歌《オータム》であり、3つめの録音ではこれの繰り返しにさまざまな音響効果が加えられており、何とも不思議な響きの世界が現出している。
 その「響きの世界」を何の予備知識もなく聴けば、美しいある種のミニマル音楽や環境音楽にしか聞こえまい。それが「タイタニック号」と結びつくには、曲名と作曲者らによる「解説」が欠かせない。そして、たとえその「解説」を読んだとしても、そこにあの惨事を重ね合わせるには一人ひとりの聴き手の想像力が求められる(これらの問題、並びにこの作品が浮かび上がらせる他の種々の問題については、庄野進『音へのたちあい――ポストモダン・ミュージックの布置』(青土社、1992年)に詳しく論じられている)。
 だが、そうした「想像力」は作曲者が定めた「タイタニック号の沈没」という枠組みを容易に超えうる。この「響きの世界」の抽象的な「曖昧さ」のゆえに(そういえば、この作品の最初の録音は「オブスキュア・レコード」というレーベルから出ている)。つまり、聴き手はこの作品に同様な惨事をいろいろと重ね合わせ、自分なりの物語をつくっていくことができるのだ。それこそごくごく個人的な事柄から、何か大きな社会的事件・事故・災害に至るまで、聴き手が何をどう重ね合わせるかによって、この《タイタニック号の沈没》は全く異なる姿を各人に示すことになろう。
 しかし、考えてみれば、これは何もこの作品に限ったことではない。具体的なテキストを持たない作品はもちろん、持つ作品であっても、聴き手がそこで自分なりの意味の世界を繰り広げることはいくらでも可能だ。そして、それを簡単に「邪道」だなどと決めつけるわけにはいくまい。