2020年4月26日日曜日

校正作業中

 チャールズ・ローゼンの『古典派様式』の翻訳がようやく一通り済み、引き続き校正作業に入っている。最後の最後までローゼン先生の難文、悪文には悩まされ通しだったが、まだ気は抜けない。初校でもう一度きちんと「日本語」を見直して、普通に読める翻訳に仕上げねばならない。
 「普通に読める」などというと、「そんなこと当たり前ではないか!」と言われそうだが、この普通のことが隅々まできちんとなされている音楽書の翻訳は実は(哲学書と同様)あまり多くない(もちろん、中にはすばらしい翻訳もいろいろある)。少し前(まだ「外出自粛」になる前)にも、ある仏語原典の邦訳について、ある人が「なんだか難しいことが書かれていて困ったが、原典を読むと拍子抜けするくらいわかりやすかった」と不満を漏らすのを聞いたが、これは珍しいことではないのだ(ちなみに、その邦訳者は次々と仏語の音楽書を邦訳しており、まあ、日本語でざっと読めるという点ではありがたいといえばありがたいのだが、どの訳書でも細部の詰めが甘く、日本語として「?」が少なくないのが困りもの)。
 なぜ、そんなことになるのかといえば、訳者が原典の意味を(たぶん)理解できてはいても、それを日本語にうまく移し替える技に習熟していないからだ。「原文(の表面的な意味)に忠実」であることにこだわりすぎると、日本語としておかしいだけではなく、「原意」すら損なうことになる。「翻訳は所詮、代用品だ」と割り切ってしまえば、原文の字面にこだわらずに意味が通る訳文をつくれるはずなのだが、そうはならないのは、外国語へのある種のフェティシズムの賜物なのか、それともコンプレックスのなさるわざなのか……。いずれにせよ、翻訳で原典に敬意を払う最良のやり方は、翻訳される言語の中だけで(つまり、原典をいちいち参照することなく)きちんと読める訳文をつくりあげることであろう。
 ……などと言うと、「そう言うお前自身はどうなのだ!」と詰問されそうだ。恥ずかしながら、自分の翻訳もまた何かしら「詰めが甘い」部分を払拭できていない。が、なるべくそうした状態から脱するべく励んではいるつもりだ。さて、どの程度のものができあがることやら……。