2020年4月5日日曜日

「一人協奏曲」を本当の協奏曲に編曲すると……

 近年、通常のレパートリー(!?)となったCh. アルカン(1813-88)の〈ピアノ独奏のための協奏曲〉(《短調による12のエチュード》作品39の第8~10曲)だが、その名の通り、独奏ピアニストが「一人協奏曲」を演じる難曲である(私がこれを初めて聴いたのは、1984年、中村(金澤)攝さんによるこのエチュードの全曲演奏会でのことだった)。
当時の演奏習慣として、協奏曲を伴奏部分もひっくるめてピアニストが一人で弾いてしまうのは珍しいことではなかった。たとえば、やはり近年、よく弾かれるようになりつつあるショパンのピアノ協奏曲独奏版がその好例である。が、この「独奏版」では元のスコアのピアノ・パートのかたちはそのままであり、ピアノが休んでいる管弦楽だけの部分がピアノ編曲されている(が、たぶん、実際の演奏に際しては「ピアノ・パート」でも即興的に管弦楽の音を加えていたのではなかろうか?)。ということはつまり、ピアニストにとっては管弦楽つきで演奏する場合とあまり労力は変わらないわけだ。
ところが、このアルカンの〈協奏曲〉は違う。これは管弦楽つき協奏曲をそのままピアノ独奏に置き換えたような体裁なので、「ピアノ独奏」の音と「管弦楽伴奏」の音が複雑に絡み合う場面が頻出する。それゆえ、音楽は何ともスリリングであり、まさに本当の意味でピアニストは「一人で協奏」することになっている(シューマンの第3ソナタも元々は「管弦楽なしの協奏曲」として書かれたものだが、「一人協奏曲」の効果のほどはそれほどでもない)。
この曲を「管弦楽とピアノ独奏の協奏曲」のかたちに書き換えてしまったのが、ドイツの作曲家カール・クリントヴォルト(1830-1916)であり、実にきちんとした編曲だ(http://ks4.imslp.info/files/imglnks/usimg/8/87/IMSLP362124-PMLP06989-Alkan_arr_Klindworth_-_Concert_Allegro_ms.pdfNaxosレーベルからこの編曲の録音が出ている)。
ところが、このなかなかよくできた編曲の演奏は原曲ほどには面白くない。なぜか? それは原曲の面白さがある程度は「一人協奏曲」という演奏形態に由来するものだったからだ。アルカンの名誉のために言っておけば、音だけを見てもこの協奏曲は巧みに構成された名曲である。が、それに加えて、一人で同時に独奏パートと管弦楽をこなしてみせるという「行為遂行性(performativity)」がこの曲に大いなる輝きを与えていたのだ。
こうしたものの例は探せば他にもいろいろあろう。たとえば、ベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」ソナタがそうだ。このソナタの管弦楽版はやはりどこか面白くないのである(このことはチャールズ・ローゼンが指摘している)。あるいは、アルベニスの《イベリア》の管弦楽版などもそうだ。
では、原曲が演奏至難の独奏曲を管弦楽などの別の媒体に編曲するのは無理なのか? そんなことはない。その「難」の部分(原曲の「行為遂行性」)をも別のかたちで引き受けるようにする工夫があれば(つまり、編曲版でも当該箇所が難しく聞こえるようにされていれば)よいのだ。そんな酔狂な編曲を試みる人も演奏する人もいないだろうが、もし、そうしたものがあれば聴いてみたいものだ。