シェーンベルクの《清められた夜》の初演時に聴衆は憤った。が、それには無理からぬところがある。当時としては剣呑な音づかい、そして、30分近くかかる全曲の最後の最後まで解決をじらしにじらすさまは、平均的な聴き手には何かもやもやしたものを感じさせずにはいなかっただろう。が、今となってはこの曲にそこまで憤る人はいまい。もはやそれはほぼ何の抵抗もなく聴ける「古典」になってしまっている。
もっとも、そのように「何の抵抗もなく聴ける」耳は、もしかしたら、この曲のドラマの一面を聴き損なっているのかもしれない。作曲者は意図的に刺激的な音を用い、解決もじらしにじらし続けたはずであり、それが作品のドラマにとってしかるべき意味を持っていたはずなのだから。にもかかわらず、それに耳が「引っかかり」を覚えないのだとすれば……。
もちろん、これはこの曲に限ったことではない。今日「古典名曲」として演奏されている多くの作品でも同様なことが起こっているはずだ。そして、それは「聴き手」だけの問題ではなく、「演奏家」も同じ問題を抱えていよう。だからこそ、逆に古典名曲の演奏にはいろいろ工夫しようがあるのだとも言えるが。そして、聴き手の耳は対象に応じて柔軟である必要があるとも……。