2024年8月31日土曜日

耳の許容範囲

  私がアコースティック・ギターを好むのは、1つにはその音量が控えめだということがある。以前ここで話題にしたように、私の耳は大音量には耐えられず、いわゆる「爆音」など苦痛以外の何ものでもない(ために、残念ながらドームなどでのポピュラー音楽の公演は聴きたくても聴けない。管弦楽の演奏会でも時に耳の許容範囲を超えることがある)。その点、ギターは実に好ましい。

 しかしながら、同じギターでもアンプで増幅するとなると、問題が生じる。種々のエフェクターを用いた音自体は嫌いではない(どころか、面白く感じる)のだが、大音量がそうした音楽にライヴで触れることの妨げになるのだ。それゆえ、私がその手の音楽を聴くには、オーディオ装置を介し、自分の耳が耐えられる音量に調整する必要がある。何ともわびしい話だが、仕方がない。たとえどんなかたちにであるにせよ、音楽を聴けるというのは私にとっては幸せなことなのだから。

2024年8月30日金曜日

アンジェロ・ジラルディーノ

  今日もまた、いつの間にか亡くなっていた作曲家を見つけた。それはギタリストであり、この楽器のために膨大な作品を産み出したイタリアの作曲家、アンジェロ・ジラルディーノだ。生年は1941年で、没年は2年前の2022年。いや、全く知らなかった。なぜ、今日、それがわかったかといえば、久しぶりに彼の作品を聴いてみようと思い、そのついでに調べたからだ。

 私の手持ちのCD14枚組で、1965年から2013年までのギター独奏曲が収められている。中でも目を惹くのは5曲のソナタや全60曲からなる《名人芸と超絶技巧のエチュード集》といった作品だが、他にも多様な曲があり、大いに楽しめる。

 そのCDとは異なる演奏だが、作品の例をあげておこう:https://www.youtube.com/watch?v=rXCiJ1HOhu0

2024年8月29日木曜日

メモ(117)

  「知る」とか「わかる」ということにはある種の「快楽」が伴うがゆえに、それ自体が自己目的化するということは往々にしてある。かく言う私も、そうした快楽を長年味わってきた。だが、あるときから、そうした「知」はどうでもよくなってきている。どれほど些細なものであっても、何かしら「生きる」ということに役立つものを私は「知」に求めたい。それがたとえ自分の誤解にすぎないものであったとしても。

2024年8月28日水曜日

なぜ対位法教本には課題への解答例がついていないのか?

  和声法の教本にはほぼ例外なく課題に愛する解答例がついている。だから、独習も十分可能だ。ところが、対位法の教本はそうではない(課題の解答ではない「範例」は載っているが……)。なぜだろう? 独習は不可能で、手取り足取りではないと教えられないからだろうか。それとも何かもっと別の理由があるのだろうか。

 さて、実はそうした対位法教本で、私の知る限り唯一の例外がある。それはケクランの『対位法』だ(訳書はかなり前に絶版になっているが、これは惜しい。新訳版が出される価値は十分にあろう)。彼の『和声概論』もそうだが、課題の解答例には事細かに説明がつけられている。ただし、それには理由がある。つまり、ケクランは最初歩の課題にさえあれこれ創意工夫を発揮しており、到底初学者には考えつきそうもない解答になっているからなのだ。とはいえ、それでも「解答例なし」の教本よりは格段に勉強になるのは確かだ。というわけで、私ももう一度これで勉強し直してみようかなあ。

 シェーンベルクの『対位法』(ただし、これは彼の死後に弟子が編集したもの。なお、これも邦訳は絶版)もなかなかに教育的だ。そこには課題こそないものの、範例が多く載せられており、詳細な解説がついている。「作曲への応用」と題した章があるのもよい。そして、こうした教本からもシェーンベルクの音楽観の一端を伺うことができて興味深い。

2024年8月27日火曜日

アイヴズ生誕150年記念のCDセットが出はするものの

  今年はアイヴズ生誕150年なので、どこかから新企画のCDセットでも出るかと期待していたら、果たして、Sony Classicalから次のものが:https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%BA%EF%BC%881874-1954%EF%BC%89_000000000023233/item_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%BA%E3%80%9C%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%EF%BC%885CD%EF%BC%89_15236749。これはアイヴズ・ファンにとっては喜ばしいセットであろう。

 とはいえ、1つ気になることが。これは新たにつくられたものではなく、50年前のアイヴズ生誕100年に出たLPセットのCDによる再発売なのだ(上記のリンク先を参照)。そのときにはこうしたものを新たにつくるだけの力があったレコード会社だが、今やそれがないから再発売でその場しのぎをせざるをえない、ということなのだろう。

 これは何もアイヴズが普通のリスナーにとっては今ひとつマイナーな作曲家だからというわけではない。もっと人気のある作曲家の「生誕(没後)○年」記念セットでも、既存の音源を適当に(としか思えない!)寄せ集めたたものがほとんどなのだ(たとえば、次のものなどがそうだ:https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AC-1845-1924_000000000025134/item_%E3%82%AC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%EF%BC%9A%E4%BD%9C%E5%93%81%E5%85%A8%E9%9B%86%EF%BC%8826CD%EF%BC%89_15227069

ああ、やはりクラシック音楽界は斜陽なのだなあ。


 

 

2024年8月26日月曜日

Yuki Morimoto《Bara》

  昨日は森本恭正さんのヴァイオリン作品集のCDhttps://www.hmv.co.jp/artist_Yuki-Morimoto_000000000340328/item_Violin-Works-%E7%B3%B8%E4%BA%95%E7%9C%9F%E7%B4%80-Vn-Yuki-Morimoto-P_1377999)を楽しく、そして、時には深い感動を味わいつつ聴いていた。ヴァイオリンは森本さんのパートナーの糸井マキさんでピアノは作曲者による演奏だが、作品、演奏ともに見事である。

 「論より証拠」で1枚すべてを聴いていただきたいところだが、残念ながらそれはかなわないので、収録作品の別演奏をあげておこう:https://www.youtube.com/watch?v=SfHqnz7lyQI

この《Bara 薔薇》という作品は全3楽章の無伴奏曲(この動画では第1楽章が欠けている)だが、ある種の「現代音楽」とは異なり、よけいな解説はここには不要である。とにかく、何の先入観も抜きにお試しあれ(この曲のみならず、You-Tubeにあげられている他の曲も)

 ついでに、別の音源も(https://www.youtube.com/watch?v=D-gxzxvq9dQ)。これはシューベルトの曲だが、この演奏を聴けば、森本さんが[「クラシック音楽もup beat」だということを実践していることがわかるし、その意味が実感できよう[追記:うっかり音源のリンク先を張り忘れていたので、後で追加した]。

2024年8月25日日曜日

95歳の現役ジャズ・プレイヤー

  今日のNHK=FMの「現代の音楽」ではチェロに電子音響が絡む作品を集めた演奏会が取り上げられていた。聴いていると、なるほどどの作品もそれぞれに美しい。が、美しすぎてことごとく途中で睡魔に襲われ、それがまた得も言われぬ甘美な感覚をもたらす。さて、この夢現の中で私が本当に聴いたのは何だったのか?

 

 その次の番組「名演奏ライブラリー」を聴こうと待ち構えていると、ラジオからは何やら違った音が……。それは「ジャパン・ジャズ・アーカイブス~貴重音源でたどる巨人の足跡~」という番組だったのだが、「朝からジャズも悪くない」と聴き始める。その「巨人」はクラリネットの北村英治氏で、本人が出演していた。

 北村氏といえば、私のような者でも名を知る名プレイヤーである。が、随分上の世代の方だったと記憶していたので、もはや本人は存命ではなく、この放送は昔々に収録されたものの再放送だと思って聴いていた。ところが、番組の話の中で「コロナ」という語が出てきたので、「まさか!」と驚く。そこで慌てて調べてみると、確かに再放送番組ではあったものの、本放送は今月の12日だったのだ。それゆえ、さらに北村氏の生年月を調べてみると、19294月! つまり、御年95歳の方が軽妙洒脱な語りを繰り広げ、しかも、番組の締めくくりには司会のジャズ・クラリネット奏者谷口英治氏と(ダブル英治!)プチ・セッションまでこなすのだ。95歳の現役ジャズ・プレイヤーというわけだ( 1年ほど前のものだが、参考動画を:https://www.youtube.com/watch?v=BJh5EjvB9Zk)。

 こういう方を目(耳?)の当たりにすると、こちらも元気になる。まだまだいろいろやれることがあるはずだと思わされる。というわけで、まことによい番組を聴かせてもらった。どうもありがとうございました。

2024年8月24日土曜日

『黄昏の調べ』がようやく版元で品切れに

  拙著『黄昏の調べ』がようやく版元で品切れになった。Amazonでは中古本が増減を繰り返しているだけで、新本はちっとも売れていなかったので版元に対して心苦しく思っていたのだが、不良在庫がなくなったということでほっと一安心である。「重版未定」とのことだが、これはこのまま終わりだろう(いずれに細部をあれこれ加筆修正し、日本の現代音楽についての1章を足した増補改訂版を出したいという野望があるのだが、まあ現状では難しかろう)。

『演奏行為論』も「在庫僅少」である。そう表示されてから「品切れ」になるまでがけっこう長いのだが、これも早く「品切れ」になり、出版社の負担が減ってくれますように。

このような売れそうもない本を出していただいた春秋社にはただただ感謝あるのみである。とともに、売れなかったことには申し訳ない気持ちで一杯だ(いずれもまだAmazonでは新本が入手可能なので、お早めにどうぞ!)。

2024年8月23日金曜日

ついにコロナに

  実は今週はコロナが発症し(たぶん、帰省の行き帰りいずれかの電車の中で感染したのだろう)、ほとんど寝室で過ごしていた。流行期を無傷で乗り切った私だが、とうとう……。まあ、今のコロナで死ぬことはまずないから、不安はない(心配なのは、家族がコロナに罹患することだ。どうか無事でありますように)。

 とはいえ、それほど酷い高熱が出たわけではないのだが、なかなかにしんどい日々であった。昨日ようやく平熱に下がったが、それでも全身の倦怠感は尋常ではなく、食欲もほとんどなかった。今日はもう少し症状が改善し、「ああ、あと少しだな」とようやく実感できる段階まできた。

 体調がそんなふうだと、もちろん、音楽などの出る幕はない。今日になってようやく音楽を普通に聴けるようになった(昨日も聴くには聴けたが、ごくわずかな時間だけだ)。そのうれしい気分にぴったりの曲を:https://www.youtube.com/watch?v=gkh5ibPyouY

2024年8月22日木曜日

メモ(116)

  昔は受け入れがたかったものが現在では好ましく感じられるようになる、ということは誰にでもあろう。あるいは逆に、まことに好ましかったものが、気がついてみると全く色褪せて見えたり、唾棄すべきものに思えたりすることも。

 こうした変化は人が生きている中で常に何かしら変わり続けている以上、避けがたいものだ。しかし、先にあげた2つの変化は異なる気分をもたらす(「絶対にそうだ」というのではなく、あくまでも傾向としてそのようなことがある)ように私には思われる。まず、「嫌→好」という変化の場合、何か思わぬ拾いものをしたような気分がしたり、自分の成長を実感できたりするなど、どこか肯定的な感情を生み出すのではなかろうか。他方、「好→嫌」という変化の場合、「そんなものを好んでいたなんて、以前の自分はいったい何を見て(聴いて)いたんだ!」というような、どこか否定的な思いをもたらすのではなかろうか。

 実のところ、今日は後者の「好→嫌」の変化に直面し、苦い思いを味わったところだ。昔はそれなりに好ましく感じていたピアニストが、今や「?」な存在になっていたことに気づいたのである(言うまでもないが、これはあくまでも私個人の感じ方の問題にすぎない)。そして、「昔の自分はいったい何を……」と思ったわけだ。が、それもまた人生。「転石苔むさず」ということで(この格言も2通りの意味に解されるが、ここではよい方の意味で)、肯定的に受け入れることにしよう。

2024年8月21日水曜日

現実直視

  日本では「巨匠」とされていたある指揮者が海外の某都市でタクトを執った。日本の雑誌には現地での反応も含めての絶賛の評が載る。ところが、実はこれが「嘘」だったというから驚きだ。なぜ、それがわかるかというと、同じ演奏会を松本清先生がたまたま聴いていたからだ。先生曰く、「客の入りは悪かったし、途中で退席する人もそれなりにいた。そして、残った聴衆は絶賛などしていない」とのことである。件の評論家はなぜ、正直にそのときの状況をリポートしなかったのだろうか? このインターネット時代にはさすがにこうしたことは起こりにくいとは思うが、この国の「大本営発表」的報道の伝統を思えば、完全に安心することはできまい。

 ところで、日本では「名手」だとされる演奏家が海外で酷評されたとき、それを「人種差別」の現れだとみなす人がいる。なるほど、そうしたことも時にはあるだろう。が、全部が全部、そうではあるまい。そうした酷評の中には真実を述べているものもそれなりにあるのではなかろうか。

 なお、私はその「巨匠」や「名手」たちがいい加減な演奏をしたとは思わない。たぶん、ベストを尽くしたのだろう。だが、残念ながらそれが向こうの聴き手に伝わらなかっただけなのだ。では、なぜ、そうなるのか――日本が西洋音楽を受容してそれなりの歳月を経た現在、こうした問題にもっときちんと向き合ってもよい頃ではなかろうか。

2024年8月19日月曜日

E. T. A. ホフマンを楽しく読んでいる

  少し前からE. T. A. ホフマンを楽しく読んでいる。これまでなんとなく敬遠してきたのだが、急にその作品が気になりだしたのだ。シューマンやチャイコフスキーをはじめ、ホフマン作品は少なからぬ作曲家の「ネタ」になってきた(もし、ホフマンがヒンデミットのオペラ《カルディヤック》を聴いたら、どう感じるだろうか?)。それゆえ、もっと早くに読み始めているべきだったのだが、仕方がない。「すべてのものには時宜がある」だ。

 ホフマンの小説は個人完訳(深田甫・訳、創土社)があり、そのばら売りを古書で購っている(原文は試しにKindle版を買ってはみたものの、語句検索ができることを除けば、まことに使い勝手が悪い)。全11冊揃いだととんでもない値段がついているのだが、ばらならばかなり安い。すべてを揃えるのは難しいが、シューマン関連のものは手に入った。それを読んでいると、なるほど、確かにシューマンに相通じるところが感じられて、面白さがいっそう増す。

 

 作曲家の湯浅譲二氏が先月亡くなっていたことを先ほど知った。かくして「現代音楽」の時代はますます遠くなりにけり、である(私がもっとも好む湯浅作品は《芭蕉の句による情景》1980-89)だ:https://www.youtube.com/watch?v=AdzrBQRoWVU)。

2024年8月18日日曜日

中村攝演奏のアルカン《12ヶ月》を30余年ぶりに聴く

  金澤節さんが「中村攝」時代に録音した『アルカン選集』の2枚目を30余年ぶりに聴く。同シリーズは全部で8枚出たのだが、私の手元には1枚目と3枚目しかなかった(4枚目も持っていたのだが、誰かに貸して行方不明。他のものは当時の財政事情故に最初から持っていなかった)ので、中古で購ったのである。そこには12ヶ月》作品74が収められており、これがお目当てだった。

 アルカンというと「超絶技巧」のイメージが強いが、必ずしもそうではなく、まことにシンプルでありながらどこか尋常でない雰囲気を持つ曲をあれこれ書いている。《12ヶ月》もそうしたものの1つで、その第1曲〈冬の夜〉をはじめて聴いたときの衝撃は忘れられない(別人の演奏だが、参考までに:https://www.youtube.com/watch?v=Pzth1MU5JFY)。

 当時、アルカンはまだ「知る人ぞ知る」存在だったが、今やそれなりに有名になった。彼の作品に集中的に取り組むピアニストも何人か現れた。が、それでもまだアルカンの全貌が明らかになったとは言いがたい。この現状がどう変わるかは、彼の作品に取り組むピアニスト次第であろう。というわけで、これからのピアニストたちに大いに期待したい。

2024年8月17日土曜日

和声法の学び直し

  以前から和声法をもう一度勉強し直そうと思っていた。西洋音楽をよりよく理解し、味わうためにである。だが、ぐずぐずしているうちにどんどん時間ばかりが過ぎていく。そんな中、森本恭正さんとメイルのやり取りをしていて「ああ、やっぱりちゃんと学び直さないとダメだな」と強く感じた。というわけで、早々に取りかかることにしよう。

2024年8月16日金曜日

お盆に郷里へ

  昨日はお盆に兄弟4人とその家族が集まるということで、郷里の金沢へ。

 昨年までは京都から特急1本で行けたのに、この春から敦賀でわざわざ新幹線に乗り換えねばならなくなった。まことに面倒くさい。料金も上がったし、車窓から見える景色も悪くなった。乗車時間はいくらか短くなったが、旅の気分が大いに削がれる(思えば、若い頃には鉄道の「鈍行」を乗り継いであちこちに出かけたが、そんな楽しみはもはや味わうべくもない)。私はどうも新幹線が好きになれない(新幹線網の拡張の裏には在来線の切り捨てがあり、それがこの国のさまざまな部門での「切り捨て」と軌を一にするものであるように思われるだけに、なおのこと)。

 まあ、それはそれとして、金沢での一夜は楽しかった(兄弟とその家族たち、とりわけ、主催者の兄夫婦に感謝)。弟や妹の子どもたち、つまり、「これから」の人たちの話を聞くのが、とりわけ楽しい。彼らなりにいろいろなことを考え、悩み、将来を思い描いているのだが、今後に幸あれと思わずにはいられない。

 

 少し前に話題にした森本恭正氏だが、すっかり「メル友」になってしまった。そのやりとりには教わることが多く、実に面白い。ただ、まことにホットで、けっこう際どい内容が含まれているので、そのままのかたちでは公開できない。それよりも、いずれ森本さんが新著を書いてくれるよう、火に油を注ぐ、もとい、慫慂することにしよう。

2024年8月14日水曜日

アラウのバッハ

  いやあ、実によい演奏だなあ:https://www.youtube.com/watch?v=m5YmzcHm39E

クラウディオ・アラウ(1903-1991)は若き日にJ. S. バッハの全チェンバロ作品を演奏会で取り上げた人だ(もちろん、彼の演奏はピアノによる)。また、《ゴルトベルク変奏曲》の録音も1942年(!)に行っている。

 そんな彼だが、ある時期以降、「ピアノによるバッハ演奏」を封印してしまう。何か考えるところがあったのだろう。ところが、死の年にパルティータ4曲を録音している。これもまことに味わい深い演奏だ(たとえば:https://www.youtube.com/watch?v=0bPHqnnL1AI)。こうしたものを聴くと、HIPは数ある選択肢の1つにすぎないと改めて思わされる。

2024年8月13日火曜日

ストコフスキー編の《展覧会の絵》

  一昨日。ストコフスキーのショパン編曲を話題にしたが、私がはじめて彼の編曲ものを聴いたのは、ムソルグスキーの《展覧会の絵》だった(https://www.youtube.com/watch?v=crp1SX0ZAFU)。少年時代、この曲集に熱中した時期があり、ピアノ原曲とラヴェルの管弦楽版はもちろん、ホロヴィッツのものすごい編曲(+演奏)、山下一仁のギター版、冨田勲のシンセサイザー版など、あれこれ楽しんだものである。そして、その中にストコフスキー版も含まれていた。

 「管弦楽の魔術師」ラヴェルには悪いが、《展覧会の絵》に関しては当時の私はあまり彼の編曲が好きではなかった(ちなみに、彼の弟子、マニュエル・ロザンタールもこの編曲をあまり高く評価していない。その理由は、そこでなされているのが「オーケストレーション」ではなく、「楽器を割り当てただけ」(マニュエル・ロザンタール(マルセル・マルナ編)『ラヴェル――その素顔と音楽論』、伊藤制子・訳、春秋社、1998年、102頁)だからだとか。なるほど)。そして、それに比べればストコフスキーの編曲――もちろん、彼はラヴェル編を大いに参考にしたことだろうが――の方が私にとっては面白く感じられたものである。

 今現在の私はラヴェルの編曲もそれなりに楽しく聴けるようになっているが、それでもやはり、ストコフスキー編に軍配を上げたい気がする。原曲の異様さをこちらの方がいっそう巧みに表しているように感じられるからだ(その点、ラヴェル編は整然としすぎているように聞こえる)。もちろん、これは好みの問題であり、ストコフスキー編を「悪趣味」だと感じる人もいよう。だが、この編曲を一一度は実演で聴いてみたいものだ。

2024年8月12日月曜日

「よい旋律」とは?

  少なくとも西洋音楽で「よい旋律」とはどのようなものかを説明するのは難しい。というのも、旋律だけで楽曲ができているわけではなく、楽曲がどのようなタイプの構成を採るかによって、旋律のありようも変わってくるからだ。

 たとえば、ブラームスのヴァイオリン協奏曲第1楽章第1主題の旋律だけをメンデルスゾーンの同曲同主題と比べてみれば、一見、後者の方が魅力的に見える。が、楽曲全体として見れば、前者のありようがいわば必然的なものである――つまり、それが「よい旋律」だということ――ことがわかる。このような構成の音楽にメンデルスゾーンの同曲のような主題を持ってくるわけにはいかないのは明らかだ。

 となると、「よい旋律」の説明は個別の具体的な楽曲に即したものであらざるを得ない(もちろん、一般理論などつくれるはずもないが、そもそもそんな必要などあるまい)。そして、旋律以外の構成要素にも目を向けつつ、楽曲全体の中で旋律がどういう役割を担っているかをとらえる必要がある。

 もっとも、「よい聴き手」ならば、わざわざそんなことを言葉にして説明するまでもなく、音楽からそのことを聴き取っていることだろう。

2024年8月11日日曜日

ストコフスキーのショパン編曲

  往年の名指揮者L. ストコフスキー(1882-1977)が編曲したショパンの曲を2つ、たまたまラジオで聴いた。それが実に面白かった。

1つはマズルカ作品174https://www.youtube.com/watch?v=BJUHgOpmOGA)。出だしからして原曲からは想像もつかない響きがし、「次はどうなる!?」と好奇心をかき立てられる。そして、その期待は裏切られなかった。この編曲はいわば一幅の音画であり、そこで描かれているのは心象風景である――などと言えば、乱暴すぎるであろうか。

もう1つは前奏曲作品2824https://www.youtube.com/watch?v=buErWylp2Vs)。これではまるでヴァーグナーではないか(この冒頭を聴いて彼のある曲を思い浮かべる人は少なくなかろう)。いやはや。

これらの編曲を「原曲への忠実さ」という観点から聴けばとんでもないシロモノだということになろう。だが、いずれの編曲も「二次創作」だと考えれば、その評価は聴き手の好き嫌い次第ということになる。そして、私は後者の立場から大いに楽しんだ。とともに、他のストコフスキーの編曲=二次創作ものをあれこれ聴いてみたいと思った。

2024年8月10日土曜日

デュファイの《めでたし、海の星》

 中世・ルネサンスの音楽には興味はあるものの、なかなかそこまでは手が回らず、私が日頃好んで聴くのはごく限られたものに留まっている。そして、その中にはギョーム・デュファイ(1397-1474)の音楽が含まれる。学部学生時代に合唱の授業があり、そこで初めて彼の音楽に出会い、それ以来のお気に入りだ(ちなみにこの授業では他にカルロ・ジェズアルド(1566-1613)やクラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)の音楽の魅力にも目(耳)を啓かれた。授業担当の今は亡きA先生にはこの点で深い楽恩を感じている)。

その授業のときに歌ったのが《めでたし、海の星Ave Maris Stella》なのだが、この曲の何とも言えない浮遊感と響きがたまらない(https://www.youtube.com/watch?v=6mcxEtyEUw4)。これは既存の聖歌(その音の並びは上の動画の最初の部分で示されている)を元にデュファイがいわば「二次創作」した曲である。その創意・工夫の何とすばらしいことか。

今日、急にこの曲が聴きたくなり、手持ちのCDを引っ張り出してくる。一聴し、自分の中でその魅力が全く色褪せていないことを確認できた。今しばらくは無理だが、そのうち、このデュファイその他の音楽をもっと深く知りたいものだ。

2024年8月9日金曜日

8月9日

  今日は89日。この日に因むいろいろなことが頭に浮かぶ。中には音楽も。

それは緩やかなテンポの弦楽合奏の曲で、初めは重々しく低音部が奏でる旋律に始まる。それを第1ヴァイオリンが奏でる無調風の悲歌が承け、他のパートが敷衍する中で音楽は次第に混沌へ向かっていく。そして、それが頂点に達したときに突然の総休止。その後、再び悲歌が今度はコントラバスとチェロで奏でられ、それがヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンへと引き継がれていく。その中で音楽は長調(変ロ長調)へと転じ、静かな祈りの音楽となって幕を閉じる。

音の細部まではっきり浮かんだわけではないが、以上述べたような構成でぼんやりと音楽が私の頭の中で鳴り響いた。これをわざわざ譜面に起こそうとは思わない(し、もはやほとんど忘れてしまったので、どうしようもない。仮に思い起こせたとしても、あまりに陳腐な内容が恥ずかしくて書き記す気にはなれない)。今日1回限りの、あくまでも私の中だけでなされた、音楽による長崎への献花である。

2024年8月8日木曜日

ブレンデル若き日のブゾーニとリストの録音が復活

  アルフレート・ブレンデル(1931-)は若き日にブゾーニの《対位法の幻想曲》とリストの《クリスマス・ツリー》を録音している。それは1952年のことであり、いずれも世界初録音だという。前者をブゾーニの弟子、エゴン・ペトリ(1881-1962)が録音したのはその4年後のことだった)。ただし、ブレンデル自身はこれらの録音について、後年、「聴いてほしくない録音です」と述べており(マルティン・マイヤー(編)(岡本和子・訳)『「さすらい人」ブレンデル』、音楽之友社、2001年、55頁)、事実、再発売されることはなかった。

 ところが、その2曲の録音がもうじきCDで復活するというhttps://www.hmv.co.jp/news/article/240808102/。本人が許可を与えたとのことだが、いったいどういう心境の変化があったのだろうか。

 とはいえ、これはブレンデル・ファンにとって、そして、ブゾーニ・ファンやリスト・ファンにとっては大いに歓迎すべき「復活」であろう(そういえば、今年はブゾーニ没後100年だ)。私も是非とも聴いてみたいと思っている。

  

2024年8月7日水曜日

メモ(115)

  旋法・調性音楽の対位法においては不協和音(程)が協和音(程)に解決されることが極めて重要な意味を持つ。すると、そうした解決から不協和音を解放してしまった(いわゆる)無調においては対位法というものは大きく変質せざるをえない(もっとはっきり言えば、重要な部分が抜け落ちてしまわざるをえない)。では、この問題に無調の作曲家はどう対処したのか?――こうした観点から、たとえばシェーンベルクの音楽を分析したら面白かろう。

2024年8月6日火曜日

8月6日にふさわしい音楽

  今日8月6日にふさわしい音楽を。それは助川敏弥(1930-2015)の《おわりのない朝》(1983)だ:https://www.youtube.com/watch?v=aR5SJGHh8VI。これを私が初めて聴いたのは放送初演のとき。広島への原爆投下から38年目のことだ。今年はそれからさらに41年の時が経った。だが、この作品の衝撃力は未だに失われていない、いや、むしろ増しているように思われる。

 それにしても、「のど元過ぎれば」なんとやらである。この国はこれからどこへ行こうとしているのだろう?(これは15日に言うべき事柄だが、今日は前倒しで……)