今朝、NHK-FMをつけると、なにやら妖しげな響きが。しばらくしてそれがジョージ・クラム(1929-2022)の《マクロコスモス》第1巻(1972)だと気づく(https://www.youtube.com/watch?v=pIEUS0-DDcs)。これを聴くのは随分久しぶりのことだ。なかなかの佳曲であると再認識。番組で次に取り上げられたのは弦楽四重奏曲《黒い天使》(1970)だが、このなかなかに「尖った」感じも悪くない(https://www.youtube.com/watch?v=etHtCVeU4-I)(これらの楽譜を大学で借りようと思ったら、残念ながら「禁帯出」だった(涙))。
これらのクラム作品を聴いて感じるのは、それがいかにもそれが書かれた時代の雰囲気を漂わせていることだ。仮に同じことを今やったとしても、まるでさまにならないだろう。やはり「歌は世につれ」というわけだ。
すると、今現在の「現代音楽」にも同じことが言えるはずである。が、私には残念ながらそうは感じられない。美しくはあるものの、右の耳から入ってほんのつかの間、脳を刺激し、すぐに左の耳から抜けていってしまい、後にはほとんど何も残さない――現在「現代音楽」の作曲家として世間では高く評価されている人たちの音楽の多くは、私にとってはそのようなものでしかないのだ。
もっとも、それは「聴き手」たる私の側に問題がある可能性も否定できない。時代から取り残されているのは私自身かもしれないのだ。それゆえ、私はそうした作曲家のことを一方的に悪し様に言うべきではないと思っている。
だが、それはそれとして、自分の心に響かないものを我慢して聴き続ける義理も私にはない。時間は有限なので、自分が欲するものに耳を傾けたい。ただし、新たな出会いに対しても耳を開いておきたいとも思う。それは得てして「偶然」に訪れるものだから、なおのこと。