2024年8月29日木曜日

メモ(117)

  「知る」とか「わかる」ということにはある種の「快楽」が伴うがゆえに、それ自体が自己目的化するということは往々にしてある。かく言う私も、そうした快楽を長年味わってきた。だが、あるときから、そうした「知」はどうでもよくなってきている。どれほど些細なものであっても、何かしら「生きる」ということに役立つものを私は「知」に求めたい。それがたとえ自分の誤解にすぎないものであったとしても。