2025年1月31日金曜日

「自伝」の類には注意が必要ではあるが

  昨日少しだけ触れたサバネーエフのスクリャービン本だが、作曲者との親交の中で直接見聞きしたことが述べられているという意味では貴重なドキュメントである(それゆえ、同書の邦訳出版は画期的なことだった)。が、だからといって、それを鵜呑みにしてはいけないのもまた確か。まず、そこにはサバネーエフの主観が入り込んでいるし、スクリャービン自身の言葉もどの程度まで真に受けてよいものやら。

 これは何も同書に限ったことではなく、一般に「自伝」や「私はその人と親交があり、いろいろなことを聞かされている」という著者による本には注意が必要だ。もちろん、だからといってその手の本に価値がないと言っているのではない。それは貴重な一次資料である。が、そうしたものは批判的に読み解かないと、作者の術中に嵌まってしまう。

 が、それはそれとして、自伝や聞き書きの類には実証的な研究書にはない面白さがある。たとえば、アルトゥール・ルービンシュタインの自伝などには、しばしば、「ホンマかいな?」と思いながらも、その話術に惹きつけられてしまう。実際にはそこで語られていることにはいろいろ思い違いや虚偽が含まれているのだが、それも含めて著者の話芸を楽しんでいるのだ。「もしかしたら、真実は人の数だけあるのかもしれないなあ」と思いながら。

2025年1月30日木曜日

興味深いスクリャービン本

  必要があって次のものを読んでいる:Lincoln Ballard,  Matthew  Bengtson &  John Bell Young, The Alexander Scriabin Companion : History, Performance, and Lore. London: Rowman & Littlefield, 2017https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781442232617. 内容についてはリンク先を参照のこと。なお、安価なペーパーバック版が出ており、当然私はこちらを入手した)。これがなかなかの好著であり、日本語で読めるスクリャービン文献がごくごく限られている(のみならず、少なからず問題も孕んでいる――上掲書の第5章では邦訳もあるサバネーエフやバゥワーズなどの著作が‘mythmaking’なものとして批判的に論じられている――)ので、彼の音楽愛好者には一読をお勧めしたい。

 中でも興味深いのがMatthew Bengtsonの手になる第3部、‘In Performanceだ。著者はピアニストであり、その視点からスクリャービンの音楽を検討している。これはスクリャービンを弾く人にとってはまことに有益な内容だと思われる。

 それにしても、今やスクリャービンはそれなりに人気のある作曲家なので、日本語で読めるきちんとした評伝や解説書が出てしかるべきであろう。というわけで、その道の専門家に期待したい。

2025年1月29日水曜日

加古隆

  一作年の2023年は作曲家・ピアニストの加古隆がフランスでデビューしてから50年にあたる年だという(そのことを次のアルバムの「商品情報」で知った:https://store.shopping.yahoo.co.jp/surprise-flower/avcl-84142.html?sc_i=shopping-pc-web-top--rcmd_trc-rcmd)。加古は19471月末の生まれだというから、もうじき78歳になる。独自の音楽の世界を切り開き、聴き手の支持も受けてきたすばらしいミュージシャンである。

が、ふと気になってAmazonで調べてみると、加古の楽譜はあれこれ出ているものの、彼が書いた本や彼について書かれた本は1冊もないではないか。これは実にもったいない。この人ほどの音楽家の活動を、まだ本人が存命でいろいろ話が聞けるうちに記録に留めたり、考察したりするような本はあってしかるべきだろう(私には坂本龍一よりも加古の音楽の方が格段に好ましい)。誰かそのあたりに詳しい人が書いてくれないものか。

2025年1月28日火曜日

B. A. ツィマーマンの《軍人たち》

  ベント・アロイス・ツィマーマン(1918-70)《軍人たち Die Soldaten》もまた、私が実演で触れてみたい20世紀のオペラの1つだ(このオペラの題名は「兵士たち」訳されることが多いようだが、登場人物の軍人の位は概ね士官なので、「兵士」という訳語は不適切である)。これは2008年に日本初演がなされているのだが、当時は貧乏のどん底で到底東京になど聴きにいけなかった。もし、これが東京などではなくびわ湖ホールで再演されるようなことがあれば、何をさておいても出かけたい(その可能性は限りなく低いだろうが、とにかく期待している)。

 このオペラを初めて聴いたのは今から30数年前のことで、Wergoレィベルから出ていたLPによってである。すぐにスコアを(当時は地方に住んでいたので、大阪のササヤ書店に書面で)注文した(これは当時の自分にとってはとんでもない大贅沢であった)が、それを手にしたときの感激は忘れられない。その後、(今は懐かしの)LD盤が出たので、これも購い(このときは中学校の教員をしていたので、すぐに買えた)、家に再生機がなかったので余所でヴィデオ・テープに録画して繰り返し観た。だが、そのうちヴィデオ再生機も壊れてしまい、さてどうしたものかと思っていると、やがてDVD出たので、以後はそれで観ている。オペラ嫌いの私がここまで執着するのは、ひとえにこの作品(とその作曲者)への興味と愛のゆえだ。

 もっとも、以前は作品に触れるのにかように手間がかかったのに、今ではYouTubeで簡単に観ることができる(https://www.youtube.com/watch?v=PUoN_ybiu2U)。なるほど、便利と言えば便利だが、こう何でもかんでも簡単に手に入るのは果たして幸せなのかどうか……。

 数種類の録音(録画)で聴いた(観た)《軍人たち》だが、一番お気に入りの演奏はやはり、最初のもの、すなわち、初演を担当したミヒャエル・ギーレン指揮のケルン・ギュルツェニッヒ管弦楽団とケルンの歌劇場の歌手陣によるものだ(これがCDで再発売されたときにすぐに買えばよかったのに、中身を知っているものだから「まあ、いつかそのうち」と思っているうちに廃盤になってしまった……)。その後に成された録音も悪くはないのだが、ギーレン盤の迫力には及ばないように思われる。

2025年1月27日月曜日

《ヴォツェック》の初演100周年

  今年はアルバン・ベルクの名作《ヴォツェック》の初演100周年だとか(そういえば、作曲者ベルクの生誕140年でもある)。20世紀に書かれたオペラの中でレパートリーに定着した、そして、これからも生き残る数少ない作品の1つであろう。オペラが苦手な私でも、さすがにこれは1回くらい実演で観てみたいと思っている。ただし、そのためにわざわざ東京方面に出かけるのは嫌なので(そんなお金があれば、その分、近場の文楽を観に行きたい)、この願望は果たして実現するであろうか?

 

 ラジオをつけるとヴィヴァルディの《四季》をやっていた。好奇心で少しだけ聴いてみたが、予想をよい意味で裏切ってくれるものがなさそうだったのでスウィッチを切ってしまう。もちろん名曲であることは重々承知しているし、演奏も決して悪くはなかったのだが……。

2025年1月26日日曜日

文楽の切り詰められた表現に魅せられる

  私は文楽をとても好ましく感じているが、歌舞伎は好きではない。役者の仰々しい演技よりも人形の切り詰められた表現の方に大いに心惹かれるのだ。そして、そこに絡む太夫の語りと三味線の音楽にも。

 その文楽の太夫の語りにもいろいろなタイプがあるようだが、声色や表情を事細かく使い分けるような語りよりも、むしろシンプルな表現の語りの方に私は魅力を覚える。もっとも、まだまだ初心者なので、もっといろいろ聴かないと本当のところはわからないだろうが……。

 大阪に住んで30年ほどになるが、文楽を初めて劇場で観たのは一昨年のことである。思えば、何ともったいないことであったか。わざわざ遠方へ出かけなくても近場でそれが観られたのだから。が、これからせいぜい楽しませてもらうことにしよう。

2025年1月25日土曜日

シェーンベルク絡みのすばらしい演奏会

  このところ一日おきに出かけているが、今日はその最終日。大阪のザ・フェニックスホールでシェーンベルクの音楽を堪能してきた。その演奏会は次のものだ:https://phoenixhall.jp/performance/2025/01/25/22073/。演目は次の通り:

 

▼シェーンベルク(ヴェーベルン編):室内交響曲 1番(室内楽編曲版)

▼シェーンベルク:『ブレットル・リーダー』より

▼ヴェーベルン:ヴァイオリンとピアノのための4つの小品

▼ベルク(作曲者編):室内協奏曲より 2楽章 アダージョ(クラリネット三重奏版)

 

▼シェーンベルク:月に憑かれたピエロ

 

 この演奏会は2つの点で楽しみにしていた。1つは大好きなシェーンベルクの音楽がたっぷり聴けること、もう1つは北村朋幹のピアノが聴けることである。そして、いずれの点でも大きな満足を味わうことができた。

 まず、選曲がよい。表現主義以前のシェーンベルクとその渦中にある大きめの作品2つを中心に据え、それとは異なる、だが、決して軽視すべきではない一面を『ブレットル・リーダー』で示す。のみならず、2人の高弟ベルクとヴェーバーンの作品も取り上げることでシェーンベルクの音楽の特質がいっそうよく見えるという仕掛けである。いや、すばらしい。

 そして、演奏もすばらしかった。近年、私はますますシェーンベルクの音楽に「美しさ」を感じるようになってきているのだが、今日のシェーンベルク作品の演奏はいずれも(決して表面的なものではなく、もっと深いところで)美しい演奏だった。それゆえ、大満足である(ただ、《ピエロ》のシュプレッヒシュティンメはもう少し「語り」に近い方がよかったかもしれない)。

 もっとも、実のところ今日の演奏でもっとも深い感動を覚えたのはベルクの「アダージョ」だった。そこで北村が奏でるピアノの響きはおよそ尋常なものではなかった。音律が固定されたこの楽器から出ているとは到底思えないような「ゆらぎ」がしばしば感じられ、何とも不思議な感覚に襲われる。表現力の幅広さとそれを駆使した演奏の説得力。かくして、北村のピアノへの興味はさらに高まった(というわけで、やはりあのリストの《巡礼の年》全曲盤やケィジの《ソナタと間奏曲》のCDは是非とも聴かねば!)。そして、そのピアノに絡むヴァイオリンとクラリネットの演奏がまた魅力的なのだ。

 ともあれ、まことにすばらしい演奏会であり、演奏者の方々、そして、企画運営に携わった方々に心から感謝したい。どうもありがとうございました。

 

 ところで、今日聴いたシェーンベルクの《ピエロ》と一昨日観た文楽というものにどこか相通じるところがあるように感じた。もちろん、両者は直接は何の関係もないことは重々承知しているものの……[追記:こう書いてから、八村義夫がそのことをすでに述べていたことを思い出す。そして、なるほど八村の言う通りだと思った。その文章を何度も読んだはずなのだが、自分で文楽を観るようになるまでその意味が実感できなかったわけである]

2025年1月24日金曜日

メモ(138)

  昨日観た「本朝廿四孝」は近松半二(1725-83。つまり、今からちょうど300年前の生まれ)その他の合作だが、当時と現在とではいろいろな意味でまるで世の中のありようが異なっている。となれば、同じ演目についても、演じ方も異なれば、観方も当然違ってこざるをえまい(たとえば、「奥庭狐火の段」に登場する狐を現代人は「神の使い」などとは考えず、そういう「物語」の登場者として観てしまうが、当時の少なからぬ人はそこに何かしらリアリティーを感じたかもしれない)。さて、その「違い」はどのようなものだったのだろう? それを知る術はないが、ついあれこれと想像してしまう。

だが、それはそれとして、私は文楽をたんなる「古典芸能」としてではなく、今現在の芸能として楽しんだし、これからもそうするだろう。彼の地で遠い昔に生まれた西洋芸術音楽に対するのと同様に。

2025年1月23日木曜日

「本朝廿四孝」を観に国立文楽劇場へ

  今週は何かと出かける用事が多い。今日は文楽を観に国立文楽劇場へ行ってきた。演目は「本朝廿四孝」四段目からの「道行似合の女夫丸」「景勝上使の段〜鉄砲渡しの段」「十種香の段」「奥庭狐火の段」である(筋書きその他は次を参照:https://yomota258.hatenablog.com/entry/2018/04/29/200353)。

いや、やはりとても面白かった。まだまだ初心者なのでどこがどう見所などはわからないが、それでも太夫の語りに魅せられ、三味線のかっこよさや渋さにシビれ、人形の精妙勝つ大胆な動きに目を見張らされたのである。段毎に演者が変わっていたので、その違いも楽しめた。もっといろいろなことがわかるようになれば、その楽しみはさらに大きくなることだろう。

それにしても、今日観たものは長い演目の一部に過ぎないのだが、それでも何ら不満を感じさせられなかった。そこには多くの要素が含まれていたからだろう。濃やかな感情表現の場面(「十種香の段」)もあれば、動きの激しい見せ場(「奥庭狐火の段」には大興奮!)もありで、とにかく観る者を飽きさせないのだ。いや、こんな面白いものが割と近場で観られるのだから、ありがたいことである。

それにしても、このように文楽を楽しく観てしまうと、ますます「オペラ」が自分にとって「遠い」ものであることを強く感じさせられる。こちらももう少し楽しめるようになれればいいなあと思ってはいるのだが……。

2025年1月22日水曜日

演奏会の聴き方の変化

  昔は演奏会を聴くと、つい作品も演奏も分析してしまい、細々としたことが気になった。そして、自分が理想とする音楽のありように照らし合わせてしまい、その結果、あれこれ不満が生じたものである。

 だが、今はそんな聴き方はほとんどしなくなった。どんな演奏であれ、その場で自分に何かしら幸せな気分をもたらしてくれるもの(その中には未知なるすばらしいものとの出会いも含まれる)ならば「よい」演奏だと思うし、それを楽しんでいる。演奏会は出会いの場であり、その「一期一会」を大切にしたいのだ(だからこそ、本当に聴きたいと思うものにしか出かけなくなってしまった)。

 では、そうはならない演奏についてはどうか? 「その演奏にはご縁がなかったのだなあ。残念」と思うようになってきている(この微妙な言い方は、まだ完全にはそうなっていないことを表している)。私は数年前に「音楽評論家」を廃業したが、なるほど、こんな聴き方をしているのでは演奏会評など書けたものではないし、そもそも書く気もしない。

 もっとも、分析的な聴き方を全くしなくなったわけではない。が、それを行うのは繰り返し聴くことができる録音に対してである。すばらしい演奏の秘密を知りたいと思うからだ。

2025年1月21日火曜日

学生の演奏を聴きに

  今日は大学で2024年度に論文作成でつきあってきた学生の修了演奏を聴きに行ってきた。実に奇妙な話だが、学生がどんな演奏をするかを全く知らずに論文の完成まで私はつきあい、授業終了後にはじめて「ああ、こんな演奏をする人だったのか!」ということを知るのだ。そして、今日はまさにその日だったわけだ(が、これはよくない。来年度からは最初に録音でもよいから学生の演奏を聴かせてもらうことにしよう)

今日の演奏者は8人いたので、午前11時に始まり、昼休憩を挟んで夜6時過ぎまでかかった。ほぼ6時間演奏を聴いていたことになるが、とても楽しかった(演目はモーツァルト、シューマン、ショパン、リスト、ブラームス、バルトーク、プロコフィエフの作品)。彼、彼女らがこれからどのような人生を歩むにせよ、音楽と楽しくつきあい続けていって欲しいものだ。

2025年1月20日月曜日

ジョン・ケィジのサティ愛

  ジョン・ケィジはエリック・サティを愛しており、その影響は1940年代後半から50年代はじめの作品にとりわけよく現れている(たとえば、《四季》(1947)や《弦楽四重奏曲》(1949-50)などを私は大いに好んでいる)。

 そして、そうしたケィジの「サティ愛」はいわゆる「偶然性」を音楽に取り入れたのちも変わらなかった。その表れが名(迷)作《チープ・イミティション》(1969)だ(https://www.youtube.com/watch?v=D6ukoi7m2wM)。これはサティの《ソクラテス》をチャンス・オペレィションによって書き換えた曲なのだが、見事にサティの音楽とケィジの音楽が融合している。元々はピアノ独奏曲だが、管弦楽版とヴァイオリン独奏版もある。前者はまだ聴いたことがないので、是非とも実演で触れてみたいものだ(何なら、サティの 《ソクラテス》との組み合わせで!)。

 

 国立大学(法人)の授業値上げの話を聞くたびに、「どうにかならないものか」と思わずにはいられない。くだらないことには平気で金を出すくせに教育にはけちるような国に未来はない。

2025年1月19日日曜日

サティも没後100年

  今年はエリック・サティの没後100年でもあった(ちなみに彼の生年は1866年で、私のちょうど100歳上の人である)。うっかり忘れていた。

 私の少年時代、すなわち、1980年代前半にはサティはようやくメジャーになりかけているときであり、録音もそう多くはなかった。それには楽譜の版権がまだ切れていなかったことも関係していよう。そして、その入手も容易ではなかった。

 ところが、80年代の後半、ちょうどその版権が切れるや否や、折しも「バブル」の頃、全音楽譜出版社からまことに豪華なつくりの「ピアノ曲全集」が全世界に先駆けて刊行され始めた(当時、私は新刊が出る毎に買い求めた)。それは全13  巻に及び、これでサティのピアノ曲のほぼすべてに容易に触れられることとなったのである。また、新しい録音も次々と登場し、中には「サティ弾き」を名乗る人も現れた。

 だが、今となってみれば、この国での「サティ・ブーム」はどこか当時の「バブル」と重なって見える。彼は面白いところのある作曲家ではあるにしても、本来ブームになるような人ではなかったのではないか? 件の「全集」もその後版が途絶え(今でも古書で、さほど高価ではなく入手可能。その抜粋版が出ているが、装幀は標準版のピアノ楽譜と同じもの)、新譜の数も減っていく。

 私も現在、サティの音楽に触れることはほとんどない。が、彼の音楽が嫌いだというわけでもない。それゆえ、時折、ごく限られた作品を聴いたり、弾いたりしている。私が好むのは《ソクラテス》や5つの夜想曲》といった、比較的落ち着いた感じの作品だ。

2025年1月18日土曜日

大学入学共通テストの日

  今日と明日は大学入学共通テストの日。私が受験したのは今からちょうど40年前(!)とその翌年で「共通1次試験」の時代だが、この頃になるといつも往時が思い起こされ、受験生にエールを送りたい気持ちになる。

 その40年の間に世の中はずいぶん変わってしまったと案じているが、よく考えてみれば、これは「平和呆け」の結果かもしれない。というのも、この日本に限っても近い過去の歴史を振り返ってみれば、40年の間にもっと大きな社会変動が生じているからだ(1945年~1985年、そして、さらにその前の1905年~1945年の間に何が起こったかを考えてみられたい)。

 さて、これからの40年の間に世の中はどう変わっていくだろうか。私はその最終結果を知ることは(まず)できないだろうが、とにかく「今」を大切に生きたい。

 

 PCで曲順を整理し直したかたちでメンデルスゾーンのピアノ曲全集のCD(独奏、アナ=マルヤ・マルコヴィナ)を聴いているがなかなかに面白い。彼のピアノ曲は「無言歌」やその他数曲以外はあまり弾かれることはないが、もっと取り上げられてもよいのではないか(同じことは彼が下敷きにしたポスト古典派のピアノ曲についても言えよう)。そうすれば、演奏者にせよ聴き手にせよ、同時代のショパン、シューマン、リストなどの個性もいっそう面白く味わえることだろう。

2025年1月17日金曜日

人の記憶とはいい加減なもの

   あの大震災から今日で30年。そのとき私は28歳だったから、それまでの人生よりも長い時間をその後に生きていることになるが、あの強烈な縦揺れは今でも忘れられない。

が、自分に直接関わりのなかった事柄のほとんどは忘却の彼方に。人の記憶などというものはかようにいい加減なものである。だからこそ、忘れてはいけないことについては、記憶を保持、強化することが欠かせない(その点では音楽というものはなかなかに有益な道具であろう)。もちろん、人は「忘れ去る」という能力を適宜行使しなければ生きてはいけない(私などはとりわけそうだった。というのも、過去は「黒歴史」の連続なので)。とはいえ、過去の失敗に学ぶところがなければ、いずれまた同じ過ちを繰り返すことになる。そこで「気をつけねば!」と自分に言い聞かせる。

 

プロコフィエフの《シンデレラ》組曲(全部で3つ)を久しぶりに聴いた。やはりすばらしい。音楽の中身は平易だが安易ではなく、凝りすぎてはいないが、ここぞというときにあっと驚く仕掛けが施してある。これが実演で聴ければなあ。

2025年1月16日木曜日

メモ(137)

  人は自分自身の姿を直接見ることはできない。だから鏡などによってそれを間接的に知るしかないわけだが、そのためだろうか、そこに映った姿を見ても驚くことはない(はじめのうちはあるのかもしれないが、そのうちに馴染んでしまう)。

 他方、自分の声の場合は自然に聞こえてくる。とはいえ、その聞こえ方が他人のものとは異なるので、録音で聞かされる自分の声は得てして驚きをもたらす。そして、いくら「他人には実際にこう聞こえているのだ」と言われようとも、なかなか納得しがたいところが残る。

 しかしながら、そのように「自分の声の聞こえ方が他人のものとは異なる」、つまり、自分にとって極めて身近であるはずの自分の声(=自己認識の一部)が他者にはそれとは違ったものとしてとらえられているということには、人間存在にとって何か深い意味と意義があるように私には思われてならない。

 

 昨日話題にしたメンデルスゾーンの不便なCDだが、結局、PCにデータと取り込み、ファイルに別名を付けて整理整頓することで何とか楽譜の順番に作品を聴くことができるようにした。が、作業は面倒だったので、やはり件のCDはお薦めできない。

2025年1月15日水曜日

菊間史織『プロコフィエフ』を楽しく再読

  菊間史織『プロコフィエフ』(音楽之友社、2024年)を楽しく再読している。いろいろな点でバランスのとれた名著だと思う。日本語で読めるプロコフィエフ関連の本が絶望的に少ないので、同書の存在はなおのこと貴重だ。何よりも、同書を読んでいるともっとプロコフィエフの音楽を聴きたくなるところがよい。 

 それにしてもプロコフィエフの「生産性」の高さには驚かされる。とにかく、寸暇を惜しんで仕事を続け、かなりの割合で名作を生み出しているのだから(その点では彼の好敵手ショスタコーヴィチも同様)。やはり偉大な芸術家は優れた職人でもあるということだろう。

 

 来年度の学生がメンデルスゾーンのピアノ曲を取り上げるので、私も勉強をしている最中。同世代のショパン、シューマン、リストといった人たちと並べてみれば、メンデルスゾーンの個性はいっそうはっきりする。ピアノ曲に限っていえば、彼の音楽は「無言歌」を除けば「反時代的」に見えるが、そうした音楽で彼が目指したものは何だったのだろう? 

 参考までにと購った「ピアノ曲全集」にCDがあるが、これは失敗だった。演奏は好みの問題なのでそれはさておき、作品が厳格に作曲年代順に収められているために、楽譜では1つの作品としてまとめられているものが見るも無惨に解体されているのだ。それゆえ、CDの収録順に聴こうとすれば楽譜の頁を何度も行ったり来たりしなければならなくなるし、楽譜の順序に従えばCDのトラック(のみならず、ディスクの番号)を激しく前後しなければならなくなるのだ。全く面倒極まりない。というわけで、このCDセット(Haensslerレィベルから出ているもの)はあまりお勧めできない。

2025年1月14日火曜日

シベリウスのソナチネ

  シベリウスの《3つのソナチネ》作品67を私はもっぱらグレン・グールドの演奏で聴いてきた。実に味わい深い演奏であり、こうしたものを知ってしまうと、わざわざ他の演奏を探そうとは思わなくなる(https://www.youtube.com/watch?v=taiU7IbqNDE)。

 ところが、今日、なぜかふと気になって、他の演奏を聴いてみた。驚いた。まるでテンポが違うのだ。グールドの演奏はまことにゆっくりとしたものだったのだ。そして、他の演奏はそれに比べれば格段に速く、まるで別の曲に聞こえたのである(https://www.youtube.com/watch?v=ZEbvscLJQZg)。

 にもかかわらず、グールドの演奏に対する感動は変わらなかった。いや、それどころかむしろ深まったのである。シベリウスの音楽の一面を見事にとらえつつ、独自の音楽世界を現出させた想像力と創造力のすばらしさに対してだ。

 もちろん、「適正な」テンポの演奏にも感動を覚えた。それまで自分がとらえ損なっていたこの作品の魅力を教えられたからである。

 それにしても、このソナチネは実に不思議な作品である。ピアノ曲でありながら、管弦楽曲が生み出す時空の広がりを強く感じさせるのだが、決して管弦楽の模倣をしているわけ ではない。いや、実に面白い。

2025年1月13日月曜日

これはすごい!

  これはすごい!:

 

https://www.youtube.com/shorts/bOcn8Tfo7zE

https://www.youtube.com/shorts/dN4cO4f06nw

https://www.youtube.com/shorts/TXuVOmwUr1w

https://www.youtube.com/shorts/WPwEF60cwwA

 

ギターにちょっと手を加えるだけで、このようなサウンドが生み出せて、かくもかっこいいプレイ(一人バンド!)ができるとは……。この人にはシンこそ脱帽である(ちなみに、これらの動画の存在は妻に教えてもらった。ありがたいことである)。

2025年1月12日日曜日

ジャズがLPで

  今日、近所の珈琲店に買い物に寄ったとき、店内にはジャズが流れていた。しかも、LPで! しばし、そのサウンドに聴き惚れてしまった。一時はCDの陰にすっかり姿を消したかに見えたLPだが、今や新譜も出るご時世。それだけ需要があるということなのだろう。

 だが、LP現役時代の人たちがこの古い媒体に寄せる思いは私にはわかるような気がするが、CD時代に生まれ育った聴き手はLPのことをどう思っているのだろう? たぶん、どこか違った眼差しを向けているのだろうが、それがどのようなものか聞いてみたいものだ。そこには何かしら発見があるだろうから。

 

 昨年からNHK-FMの「現代の音楽」を時間が合えば聴くようにしているが、番組の低調ぶりにはため息が出る。今日も「現代音楽 100年のレガシー」と題してリゲティを取り上げていたが、私の少年時代にはこのような「ぬるい」内容のものはなかった(番組中の解説も極めてぬるかった!)。これはいったい、どのような聴き手を想定しているものなのだろう?

 まあ、「現代音楽」というもの自体が昔ほどの勢いを持たない現在では、これは仕方がないことなのかもしれない。が、「現代の音楽(創造)」と伝える番組はあってしかるべきだと思うので、根本的な立て直しを期待したい。いっそのこと、もっと若い世代(3,40代 )の人に舵取りを任せてみたらどうだろう。

 

2025年1月11日土曜日

危険なホロヴィッツ版の《展覧会の絵》

  私が少年時代に愛聴していた《展覧会の絵》はホロヴィッツ演奏のものだった。彼があれこれ手を加えてもので、とりわけ終曲の迫力にはただただ圧倒された(https://www.youtube.com/watch?v=aw6qOVHChLs)。

 だが、この演奏は原曲のよさをある面では巧みに引き出しつつも、別な面では覆い隠してしまっており、功罪相半ばするものだといえる。事実、私はこのホロヴィッツ版にあまりに馴染みすぎたがために、かなり長い間、普通の楽譜通りの演奏を聴いてもどこか物足りなさを覚えずにはいられなかった。その後幸い、その「症状」は治ったが……。

 ところで、このホロヴィッツ版の《展覧会の絵》を某ピアニストが録音しているが、やはり本人の演奏とは何かが大きく異なっており、どうにも物足りなかった。やはりこの編曲はホロヴィッツ自身の演奏スタイルと密接に結びついており、他者には真似できないものなのだろう。

 それゆえ、現在のピアニストはそうした危険なホロヴィッツ版に手を出すよりも、いっそのこと自分で編曲――1980年代以降に流行った「換骨奪胎」的編曲=創作の流儀で――した方がずっと面白いものになるはずだ。

2025年1月10日金曜日

名曲との再会

  ムソルグスキーの《展覧会の絵》は少年時代の私の愛聴曲であり、愛奏曲であった。もちろん、当時の私の技術では弾けるはずもない曲だった(もちろん、今もそうだ)が、ゆっくりめの曲のみを取り上げ、それこそ暗譜するくらいに好んでいた。が、その反動だろうか、あるときから全く見向きもしなくなり、楽譜すら持たない時期が長く続く。

 その後、この《展覧会の絵》をCDなどで時折「聴く」ようになりはしたものの、「弾く」事には全く興味がなかった。ところが、数年前、古書店で安価な楽譜を見つけ、「まあ、この曲の楽譜があっても悪くはないか」と思い、それを購ったのである。

 とはいえ、その楽譜を譜面台の上で開くことはほとんどなかった。ところが、数日前、なぜか急にこの曲の音をピアノで鳴らしてみたい気になったのである。そして、たどたどしく音を拾ってみると、その豊かな響きに驚かされた。「何を今更」という感じだが、実際そうだったのだから仕方がない。とにかく、どの曲も実によい響きがするし、弾き手(にして聴き手)の想像力を大いに掻き立てるのだ。この作品は「弾きやすさ」という点では必ずしも「ピアニスティック」ではないが、この楽器の響きを十全に活用しているという点ではまさに奇跡のピアノ名曲である。「なぜ、このようなすばらしい曲に長年触れずじまいだったのだろうか?」と自分を訝らずにはいられなかった。

 だが、こうも考えられる。つまり、そのように「長年触れずじまい」だったからこそ、まるで未知の曲に触れるがごとくにこの《展覧会の絵》の魅力を味わうことができたのだろう、と。そして、これはなにもこの曲に限ったことではあるまい。いかに名曲であっても、始終顔をつきあわせていれば、嫌になりもする。その場合、この私にとっての《展覧会の絵》のように、冷却(忘却?)期間を置くのがよかろう(もっとも、そうなると、現在の多くの演奏会から足が遠のくことになるかも……)。

2025年1月9日木曜日

レイモン・ガロワ=モンブラン

  昨日大学図書館の書庫で楽譜を物色していたところ、レイモン・ガロワ=モンブラン(1918-94。ということは、昨年は没後30年だったことになる)のピアノ曲が目に留まる。ピアノ・ソナタなどがあり、2点借りてきた。これから音のありようを探ってみるのが楽しみだ。

 モンブランの名は今の日本では作曲家としてよりもヴァイオリン奏者として記憶されているかもしれない。彼がジャン・ユボーと録音したフォレのヴァイオリン・ソナタ2曲は私が知る限りでは最高の名演である。

 さて、そのモンブランに学び、強い影響を受けたのが三善晃(1933-2013)である。その三善のピアノ曲が図書館の書架では奇しくもモンブランの隣に収められていたのだ。なんたる偶然! いや、それはたんなる偶然ではないのかもしれぬ。

2025年1月8日水曜日

しつこくも「演奏」について

  昨日の話題の続きを。チャイコフスキーの《弦楽セレナード》の現在ありがちな冒頭部分のdolceな演奏について、森本恭正さんは「だからこそ、この曲が人気曲としての地位を得たのであろう」(メイルの一節の大意)と考えておられる。なるほど、それは大いにありうることだ(この曲に限らず、最初はあまり人気のなかったものがある演奏をきっかけに脚光を浴びるといった例はいろいろ見つかる)。

 では、そうした演奏は後世の演奏家が好き勝手にやっていることなのだろうか? 必ずしもそうではあるまい。むしろ、作品が持つ潜在的な可能性をつかみ出そうとしていたのかもしれないのだ。そして、そうした「可能性」に作曲家自身が気づいていたかどうかはともかく、演奏が説得力を持つものならば、彼(彼女)らは楽譜からの表面的な逸脱に対しては概ね寛大であるようだ(自身が作曲家である森本さんも件のセレナードのdolceの演奏について「チャイコフスキーは怒ったりしないと思いますよ」と述べておられる)。

 にもかかわらず、私が「楽譜はきちんと読まなければいけない」と言ったのには2つの理由がある。1つは、いかに広く受け入れられた演奏解釈であっても、楽譜をきちんと読みなおせば何かしら改善の余地が見つかるかもしれないからだ。そして、もう1つは、昨日述べたことに関わる。つまり――①音楽作品のみならず、演奏にも「賞味期限切れ」が生じうる。②それは作品が決まり切った型で演奏されることによる。③そうした「型」(演奏の習慣)を脱するには楽譜に立ち返り、それまでの先入観を振り払って読み直すしかない――ということである(そこには演奏者の「解釈」のみならず「創造」も関わりうるが、それについては拙著『演奏行為論』で論じた。が、いずれもっと詳しく論じ直してみたいと思っている)。

2025年1月7日火曜日

演奏家という存在の大きさ

  どのような音楽作品であれ、それが生まれた時代の何かが刻印されている。そして、それゆえにこそものによっては熱狂的に受け入れられもするわけだが、そうした作品はその「時代」の終わりとともに飽きられてしまうことが少なくない。「賞味期限切れ」というわけだ。

 とはいえ、中にはその時代の移り変わりを経ても残る作品もある。それには作品自体の質の高さということもあろう。だが、それだけではあるまい。新たな時代に受け入れられるようにしてみせる「演奏」がなければ、いかに優れた作品であっても埋もれてしまった可能性があるのではなかろうか。

 

 先ほどラジオをつけたら、ブラームスのピアノ協奏曲第2番が聞こえてきた。が、この重厚な曲にしては管弦楽の響きが随分軽やかだ。そこで番組表を見てみると、演奏者は「(ピアノ)アレクサンドル・カントロフ、(管弦楽)ローザンヌ室内管弦楽団、(指揮)ジャン・ジャック・カントロフ」とあった。室内管弦楽団による演奏だったのだ。が、もちろんそれだけではなく、演奏の流儀の問題もあるのだろう。独奏ピアノ(指揮を担当している名ヴァイオニストの子息)もなかなかによい感じなので、「聴き逃し配信」で最初から聴き直したくなった(演奏会前半の演目、サン=サーンスの交響曲痔2番も気になることだし)。これがありきたりの演奏だったら、こうはならない。やはり、音楽作品にとって演奏家の存在は大きい。

2025年1月6日月曜日

摩訶不思議なバッハ

  次の動画で演奏されているのはバッハなのだが、どこかガムランを思わせる摩訶不思議な響きがする。:https://www.youtube.com/watch?v=wFdKkWscQ40。音楽の中にはオリジナルの形態を離れると意味や価値を失うものもあるが、バッハの音楽の多くはそうではない(もちろん、それらのタイプのいずれか一方が劣っているということなのではない)。そして、そうして別の場で新たな生を得た音楽が、もはやどこの誰がつくったものであるかなど、どうでもよくなる。今現にそこにあるものが放つ輝きのゆえに。

2025年1月5日日曜日

「楽譜の読み違い」の構造?

  くどいようだが、昨日の話題の続きを。

 件の楽譜の読み間違えのようなことは、他の場面でもいろいろと生じているに違いない。そして、それはたんに「不注意」とか「怠慢」とかで片付けられるものではなかろう。少なからぬ人が共通して間違えるからには、そこには何かしら理由や原因があるはずだ。そこで、そうした例を収集して「なぜ間違えたのか」を検討してみれば、私たちの楽譜の読み方、ひいては音楽の認知の仕方について有益な発見があるのではなかろうか。

2025年1月4日土曜日

楽譜はきちんと読まなければいけない

  昨日取り上げたチャイコフスキーの《弦楽セレナード》の演奏だが、実はいずれも楽譜冒頭にある重要な指示――sempre marcatissimo――を無視している(あるいは、眼中にない)。かく言う私もそのことに全く気づかなかった。森本恭正さんに指摘されて、はじめてその指示の存在に気づいたのである(いや、お恥ずかしい)。なぜ、そんなことになったのかといえば、どの演奏を聴いてもそれがほとんど、あるいは全く守られておらず、むしろそれが普通の演奏スタイルだと思い込んでいたからだ。

 では、楽譜の指示を守るとどうなるのか。そのような演奏がないかと探してみたところ、幸い見つかった。往年の巨匠、ウィレム・メンゲルベルク(1871-1951)指揮の演奏である:https://www.youtube.com/watch?v=l8-U99FQmYk。これを聴くと、今日普通の演奏だとされるものとは大きく異なっていることに驚かされるが、楽譜に忠実なのはこのメンゲルベルクの方なのだ。そして、こうしたものを聴くと、やはり「演奏」(そして、その「習慣」――楽譜の指示させ見えなくさせるもの――の持つ力)というものについてさらにいろいろと考えさせられる。

 それにしても、やはり楽譜はきちんと読まなければいけないと痛感させられた。

2025年1月3日金曜日

同じ曲でも

  同一曲についての3つの演奏:

 

Ahttps://www.youtube.com/watch?v=6TEKJIoXMVQ

Bhttps://www.youtube.com/watch?v=Zt_BOL3OlhQ

 Chttps://www.youtube.com/watch?v=rKwb9P1JtC4

 

いずれもそれぞれに面白いが、これらの間にある「違い」はいろいろなことを考えさせてくれる。

 

2025年1月2日木曜日

モシュコフスキのピアノ協奏曲

  今年没後100年となる作曲家・ピアニストのモリッツ・モシュコフスキ(1854-1925)の名曲、ピアノ協奏曲(第2番)ホ長調作品59https://www.youtube.com/watch?v=R3wadfO17-I

実演で聴いてみたいものだが、これを趣味よく弾けるピアニストはそう多くはあるまい。スティーヴン・ハフなどが弾いたらすばらしいものになるだろう(が、実演でそれを聴くことは叶うまい。ならば、せめて録音だけでも……)。

 

 あの地震から1年も経つというのに……: https://news.yahoo.co.jp/articles/0af4cb3d8f0cab571176ac2ec5fd8a789d700aad

 

2025年1月1日水曜日

2025年の始まりに

  2025年が始まった。いったいどんな年になるだろうか。少なくとも世の中がこれ以上酷いことになりませんように。

 

 毎年、作曲家の「生誕○年」とか「没後△年」とかいうことを考えるのだが、真っ先に浮かんだのは音楽家ならぬ作家の三島由紀夫である。今年は彼の生誕100年なのだ。私は少年時代に耽読し、その後はほとんど読み返していないが、今読めばもっと楽しめるような気がする。今の若者にとって、三島はどのような存在なのだろうか? 

 

 さて、作曲家に話を戻せば、今年はラヴェルの生誕150年、ピエール・ブゥレーズ、ルチアーノ・ベリオ、アルド・クレメンティや芥川也寸志の生誕100年、モリッツ・モシュコフスキの没後100年、ボリス・ブラッハーの没後50年くらいがぱっと思い浮かぶ。もちろん、探せば他にもあるだろう。

 

 「年の初めに何を弾いたものか」と考え、ある楽譜を書架から取り出してきて、ピアノの前に広げ、演奏を始めた。いや、自分では何もしなかった。その楽譜はジョン・ケィジの《4 33秒》だったから。「新音楽」についていろいろ考えている最中なので、それにふさわしい曲(?)を選んだわけだ。

 その演奏(?)中、窓の外からは飛行機らしき音が聞こえてくる。正直言って耳障りだった。そして、これがなかなか去ってくれないものだから、周囲の物音に耳を傾けるどころではない。まあ、それはそれでいろいろなことを考えさせられたから、よしとすべきか。