2025年1月8日水曜日

しつこくも「演奏」について

  昨日の話題の続きを。チャイコフスキーの《弦楽セレナード》の現在ありがちな冒頭部分のdolceな演奏について、森本恭正さんは「だからこそ、この曲が人気曲としての地位を得たのであろう」(メイルの一節の大意)と考えておられる。なるほど、それは大いにありうることだ(この曲に限らず、最初はあまり人気のなかったものがある演奏をきっかけに脚光を浴びるといった例はいろいろ見つかる)。

 では、そうした演奏は後世の演奏家が好き勝手にやっていることなのだろうか? 必ずしもそうではあるまい。むしろ、作品が持つ潜在的な可能性をつかみ出そうとしていたのかもしれないのだ。そして、そうした「可能性」に作曲家自身が気づいていたかどうかはともかく、演奏が説得力を持つものならば、彼(彼女)らは楽譜からの表面的な逸脱に対しては概ね寛大であるようだ(自身が作曲家である森本さんも件のセレナードのdolceの演奏について「チャイコフスキーは怒ったりしないと思いますよ」と述べておられる)。

 にもかかわらず、私が「楽譜はきちんと読まなければいけない」と言ったのには2つの理由がある。1つは、いかに広く受け入れられた演奏解釈であっても、楽譜をきちんと読みなおせば何かしら改善の余地が見つかるかもしれないからだ。そして、もう1つは、昨日述べたことに関わる。つまり――①音楽作品のみならず、演奏にも「賞味期限切れ」が生じうる。②それは作品が決まり切った型で演奏されることによる。③そうした「型」(演奏の習慣)を脱するには楽譜に立ち返り、それまでの先入観を振り払って読み直すしかない――ということである(そこには演奏者の「解釈」のみならず「創造」も関わりうるが、それについては拙著『演奏行為論』で論じた。が、いずれもっと詳しく論じ直してみたいと思っている)。