どのような音楽作品であれ、それが生まれた時代の何かが刻印されている。そして、それゆえにこそものによっては熱狂的に受け入れられもするわけだが、そうした作品はその「時代」の終わりとともに飽きられてしまうことが少なくない。「賞味期限切れ」というわけだ。
とはいえ、中にはその時代の移り変わりを経ても残る作品もある。それには作品自体の質の高さということもあろう。だが、それだけではあるまい。新たな時代に受け入れられるようにしてみせる「演奏」がなければ、いかに優れた作品であっても埋もれてしまった可能性があるのではなかろうか。
先ほどラジオをつけたら、ブラームスのピアノ協奏曲第2番が聞こえてきた。が、この重厚な曲にしては管弦楽の響きが随分軽やかだ。そこで番組表を見てみると、演奏者は「(ピアノ)アレクサンドル・カントロフ、(管弦楽)ローザンヌ室内管弦楽団、(指揮)ジャン・ジャック・カントロフ」とあった。室内管弦楽団による演奏だったのだ。が、もちろんそれだけではなく、演奏の流儀の問題もあるのだろう。独奏ピアノ(指揮を担当している名ヴァイオニストの子息)もなかなかによい感じなので、「聴き逃し配信」で最初から聴き直したくなった(演奏会前半の演目、サン=サーンスの交響曲痔2番も気になることだし)。これがありきたりの演奏だったら、こうはならない。やはり、音楽作品にとって演奏家の存在は大きい。