2025年2月28日金曜日

imaginary prepared piano

  ジョン・ケィジのプリペアード・ピアノ(ピアノの弦の間にいろいろな素材を挟み、音を変えてしまったもの)のための一連の作品はとても魅力的な響きがする(その一例:https://www.youtube.com/watch?v=X990zJyVguc)。が、それを個人が気軽に自分で弾いて楽しむわけにはいかない。というのも、ピアノの弦の間にいろいろなものを挟めば調律が狂ってしまうし、その挟む素材をそろえるのも難儀だから。

 が、先日、ふと思いついた。「現実のプリペアード・ピアノを用意するのが無理ならば、せめて想像の中でも」と。つまり、普通のピアノで弾くときに、プリペアード・ピアノが発するであろう音を想像しつつ、あれこれ弾き方を変えてみるということだ。そこで、さっそく手持ちの楽譜《ソナタと間奏曲》(上のリンク先の作品)を取り出してきてやってみると、これがまことに楽しい。なるほど、出てくる音は本物のプリペアード・ピアノとはかなり異なる。が、それでもよいのだ。むしろ、その「隔たり」が想像力と創造力を刺激し、普通のピアノ曲を弾くときとは一味も二味も違う喜びをもたらしてくれる。というわけで、ケィジのプリペアード・ピアノ作品を愛好する方に、是非ともこの「想像上のプリペアード・ピアノ」演奏をお勧めしたい。

2025年2月27日木曜日

アルド・クレメンティの生誕100年

  今年生誕100年のイタリアの作曲家といえば、ルチアーノ・ベリオの名が真っ先にあげられるだろう。が、アルド・クレメンティの名も逸したくはない。それほど彼の作品を多く知るわけではないが、それらは心に安らぎをもたらしてくれる(その一例:https://www.youtube.com/watch?v=potEZaoRdWk&list=PL85v3ho5sSTaEeS1T8G1NbgubPMmtGzVA)。

 

気になって調べてみたところ、1930生まれの2人の作曲家が奇しくもやはり同じ2021年に亡くなっていたことを知った。1人はイタリアのパオロ・カスタルディであり、もう1人はスペインのルイス・デ・パブロである。いずれも私にとってはまことに興味深い作曲家だが、彼らの作品を実演で聴ける機会など今後まずあるまい。ともあれ、これでますます「現代音楽」が歴史の一齣になってしまった。

ところで、私がこうして「あの人はまだ存命かな?」と気になる作曲家は、概ね1940年代生まれの人までである。1950年代以降の作曲家はそれに比べてまだ若いということもあるが、そもそも、この世代以降の作曲家の作品を聴いてよいと感じたことがあまりないのだ(もちろん、中には自分が好ましく感じている人は何人かいるし、探せばこれからも見つかるだろう。そして、見つかればいいなあとは思っている)。私が「現代音楽」を聴き始めた1980年代はじめ、1950年代生まれの作曲家は「若手」だったが、彼らの作品はその前の世代の作曲家の音楽と何かが違うように感じられたものである。そして、その感じは以後も失われることはなかった。まして、その下の世代については……。その「違い」が何なのかはこれまでにもいろいろ考えてきたが、まだわからない。それゆえ、これからも考え続けていくつもりだ。

2025年2月26日水曜日

AIで書いた小説?

  AIで書いた小説についての記事を娘が教えてくれた(https://note.com/aono_keishi/n/n7686ce6570bf)。その「小説」は「星新一賞」の最終選考に残ったとのことで、興味から一読してみた。私にとってはつまらない話だったが、これを面白く読む人もいるのかもしれない(さもなくば、最終選考にまで残らないだろう)。

 ところで、この記事の筆者はこう言う。「今までは文章力や表現力がないことで小説執筆を断念していた人も、これからはアイデアさえあれば小説を書ける時代になります」と。なるほど、「作品」を生み出すという意味ではそうなのかもしれない。が、「文章力や表現力」と「アイデア」を切り離し(そもそも、それはどこまで可能なのだろう?)、前者を機械任せにすることが、果たして「小説を書く」ことだと言えるのだろうか? 「何を」だけではなく、「いかに」ということが小説を書く上での難しさであるとともに面白さであるはずだが、それを機械任せにしてしまうとすれば、わざわざ「小説家」と名乗る人がやることではあるまい。

 もっとも、小説の「売り手」にしてみれば、それが機械の手になるものだったとしても、一定の品質を持ち、読者を得られるのならば問題はなかろう。上記リンク先の小説を読む限りではAIは未だその水準にはないように思われるが、やがて読むに値する小説を生み出せるようになるだろう。すると、ほぼ全面的にAIを駆使して「小説」を生み出す「売文業者」(私はこの語を否定的な意味にではなく、「小説家」と区別するために用いている)がどんどん出てくるかもしれない。が、私はそんな「小説」など読みたくはない。また、人でなければ書けないものがあると信じたいし、小説家にはAIに負けないだけのよりいっそうの創意工夫を期待している。

 

2025年2月25日火曜日

ピアノ初級・中級者向けの教材のアイディア

  ピアノ初級・中級者向けの教材として、外国語の歌いやすい歌曲の編曲による曲集をつくればよいと思う。もちろん、安易な編曲ではなく、音楽としてきちんとしたものでありながら、決して難しすぎないものが望ましい。

その曲集を用いた練習は次のように進められる:①学習者はピアノの練習に先立って、当該歌曲を原語で歌えるようにする(曲集所収の「発音の手引き」――カタカナではなく発音記号を用いて、発音の基本原則をわかりやすく説明したもの――に従い、容易に入手できる推奨音源(つまり、名歌手の歌唱の録音)の真似を徹底的に行う)。②それができるようになってからはじめてその編曲をピアノで練習する。その際、やはりお手本の音源の歌唱法をピアノでできる限り再現するよう努める――以上である。ここで大切なのは①の段階だ。これをきちんと踏まえてこそ②が意味を持つだろう。

音楽の根源にあるのは「歌」であり、歌の根源にあるのは言語である。それゆえ、そこに遡って音楽をつくりあげる習慣を早いうちに身につけることは、ともすると「歌」や「言語」とは無縁なままにどんどん進んでいってしまうピアノ学習者にとっては有益なはずだ。

2025年2月24日月曜日

メモ(141)

  たとえばリストの超絶技巧ピアノ曲でピアニストがミスをすれば、聴き手にはすぐにわかる。が、ある種の現代音楽の超絶技巧曲はそうではない。作曲者自身でさえ本当に演奏のミスがわかるのかどうか怪しまれる複雑怪奇な楽譜ものも少なくない。「こんなものを演奏家に押しつけておいて、いい気なものだなあ」と、昨日、NHK-FMの「現代の音楽」でファーニホウ作品を聴きながら思った。

 が、それはそれとして、現代音楽の超絶技巧作品の中には聴いていて「鳴り響き」を楽しめるものがあるのも確か。とはいえ、そのような効果を上げるのに、もっと演奏しやすいように書く工夫の余地はいろいろあるのではないか? そして、この視点から(も)20世紀の現代音楽の書法を批判的に検討してみれば、現在の作曲家は何かし得るところがあるのではなかろうか。

2025年2月23日日曜日

メモ(140)

  ある1つの「語り方」が強い力を持っている中にあって、自分の言葉で語るのは難しい。のみならず、その流行に自分の思考が絡め取られてしまい、自分で考え、語っているつもりのことが実はそうではなくなってしまっているということも十分ありうる(もちろん、この場合、「自分」ということが何を意味するのかということ、そして、確固たる「自分」なるものがありうるのということは慎重に考えられてしかるべきだが)。

2次大戦後、芸術音楽の世界で「前衛」が隆盛を極めたとき、第一線で活躍する作曲家の中でそれに抗って創作をしている者はほとんどいなかった(精確に言えば、そうした者はいくらよい作品がつくれても第一線に立つことを認められなかった)。「前衛にあらずんば現代の作曲家にあらず」というわけだ。だが、そんな時代が終わってみると、かつての「話題作」の少なからぬものが作曲家個人の言葉で語られたものなどではなく、流行の言葉を器用に用いただけのものであることが見えてくる。

たぶん、当時の作品の中から本当の「名作」を選び出すのはこれからの演奏家であり、聴き手なのだろう(ただし、当時の作品への関心が今後も失われないとすれば、の話だが)。もっとも、その際、もはや「個性」とか「独創性」とかいう点は評価の最重要項目ではなくなるかもしれない。

2025年2月22日土曜日

ラジオでマーラーの交響曲を聴く

  今週のNHK-FM夜のクラシック音楽番組ではマーラーの交響曲を取り上げていた。この時間帯は夕食時間にかかっているので、いつも途中から聴くこととなっていたが、それでも興味があって、私にしては珍しくも毎晩ラジオに向かっていた。

とはいえ、残念ながら、深い感動を得られるような演奏には出会えなかった(もし、そうした演奏があれば、「聴き逃し配信」を利用してはじめから聴き直すつもりだったが……)。ライヴ録音なので、聴衆の「ブラヴォー」の声も放送には含まれていたが、その感動を共有できない疎外感を毎日味わうこととなった。

だが、それは結局、演奏が悪いというよりも、ラジオをいう媒体(しかも、ヘッドフォンを用いて聴いたこと)がよくなかったのであろう。もし、私も同じ演奏会場にいたとすれば、マーラーの交響曲の圧倒的な量感に何かしら感動を覚えたに違いない。

 ちなみに、私が生で聴いたことのないマーラーの交響曲はといえば、第2、第4,第7である。あとはいちおう実演に触れることができたが、演奏の良し悪しはあれこれありはしたものの、いずれも「ああ、これが聴けてよかったなあ」と思えた。それゆえ、今後、生で未聴の交響曲も是非とも聴いてみたいし、既聴のものについてもいっそう感動的な演奏に出会いたいと思っている。

  なお、放送初日の月曜は第1が取り上げられていたが、聴きながら「なんだか随分軽い感じの演奏だなあ」と思っていたところ、果たしてフランスのオケによる演奏だった。なるほど、違和感を覚えたのも道理である。が、これはこれで面白かった。さて、日本のオケのマーラー演奏は諸外国の聴き手にはどのようなものに聞こえているのだろう? 自分たちの流儀とは違った面白さを何かしら見つけてくれているとよいなあ、と思う。

2025年2月21日金曜日

楽譜の誤記の判断

  楽譜を読んでいると、しばしば、同じフレーズやパッセージの反復や再現と覚しき箇所で、音やアーティキュレーションなどが異なっている場合が見つかる。その中にはたんなる誤記や省略もあれば、作曲者が意図的に違ったふうに書いているものもある。そして、その判断はなかなかに難しい。

昨日話題にしたラヴェルの《鏡》第1曲の場合、森安は件の箇所について、直前数小節が、その前に出てきた同様なパッセージを「そっくり完全5度下に移調したものであること」(森安版『ラヴェル全集1』、(16頁))を理由に、既存の版に書かれている音について、「可能性は皆無といってよい」(同)と断じている。なるほど、この説明は論理的であり、これが正しい可能性は十分にある。

が、それはあくまでも「可能性」に留まる。というのも、このような場合に作曲者が敢えて異なる音を書く可能性も完全には否定できないからだ。ただ、その判断は作曲家の性格によって違ってくる。たとえば、シューマンの(少なくとも)初期ピアノ作品群であれば、このような場合に「異なる」音が楽譜に書かれていたとすれば、それは誤記だと考えてまず間違いない。というのも、彼は同じフレーズやパッセージの反復や再現に際して律儀なほどに「同じ」ことを書いているからだ(そのために音楽がくどくなりすぎている場合も少なくない)。他方、ショパンはといえば、シューマンとは対照的に何かしら違ったことをしている場合が少なくないので、すぐには「誤記」だと断定はできない。では、ラヴェルの場合はどうなのだろう? それは彼の他の作品にも細かく目を通し、このような場合に彼がどう対処しているのか――すなわち、彼の「様式」――を把握した上で「推論」するしかない。

こうした「推論」は楽譜の校訂者のみならず、楽譜の「読み手」にも要求されよう。なんとなれば、完全な楽譜などというものは存在しえないからだ。そして、そもそも楽譜から(頭の中に思い浮かべるものも含めて)現実の音を立ち上げる際に各自が楽譜に数多ある「空所」を埋めていくしかないからだ。それが本当の意味で「楽譜を読む」ということであろう。

2025年2月20日木曜日

森安版ラヴェル・ピアノ曲集に圧倒される

  今年はラヴェル・イヤー(生誕150年。「それだけしか経っていないのか!」とつい思ってしまうほど、私の中で彼は「古典」の作曲家に位置づけられている)。それゆえ、作品をあれこれ楽しく見(聴き)直している。

 先日、春秋社から出ている森安芳樹校訂のピアノ曲集を久しぶりに見てみたが、やはり凄い。まことに緻密な「校訂報告」には初版の比較検討結果のみならず、独自の見解もいろいろと述べられており、編者の透徹した楽譜の「読み」にはただただ圧倒される。また、「演奏ノート」も作品を読み解く上で大いに参考になる。

中には種々の資料にはないにもかかわらず、作品の前後関係から採用されている音もある。たとえば、《鏡》第1曲第120小節冒頭和音の最上音がそうなのだが、それは1つの解釈として十分説得力を持っている(ただし、この場会、従来の諸版に記されている音が正しいものである可能性も十分あるので、変更は1つの案として脚註で示した方がよかったかもしれない)。

 その後、ラヴェルの原典版楽譜はいろいろ出版されているが、森安版はそれらに引けを取らないものであり、価格と入手のしやすさという点では勝っている(第2巻は今品切れだが、じきに新装版が出ることだろう)。同じ国内版では全音版も悪くはないが、楽譜の見やすさも含む総合点で私ならば森安版を採りたい。

 森安氏が編集した楽譜には他にもアルベニスやシマノフスキなどがあり、いずれもすばらしい。氏は(今日の平均余命からすれば)若くして亡くなっているが、もっと長生きして他にもいろいろと楽譜の校訂をしていただきたかったものである。

 

 同じ春秋社の楽譜でも、この森安版に比べて些か残念なのが、別の編者の手になるスクリャービンの楽譜だ。「ピアノ曲全集」という企画自体はすばらしく、有用性という面でも(わたし含めて)恩恵に与っている人は少なくないはずだ。それだけに少なくない楽譜の誤記は是非とも改めてもらいたいものだし、今となっては内容面で古くなった解説もアップデートすればよいと思う(と、全7巻を購った1ユーザーとして言いたい)。幸い、編者の1人はまだ存命なのだから、これは実現可能なはずだ。そして、そうであってこそ、「スクリャービン(ピアノ曲)全集」というこのすばらしい企画の意義は高まり、これからも多くの利用者を得続けるに違いない。

2025年2月19日水曜日

間宮芳生氏も亡くなっていた

  昨日、「シャシャブとグイミ」について調べている中で作曲家の間宮芳生氏(1929年生まれ)が昨年末に亡くなってなっていたことを知る(https://www.asahi.com/articles/ASSDD1T7BSDDUCVL041M.html)。

氏の作品に興味がなかったわけではないが、結果として他のものを優先してしまい、あまり知らないままでいた。が、自分が知る数少ない作品について言えば、とても好ましく感じている(たとえば次のものなど:https://www.youtube.com/watch?v=WIKxiRt4ZnM)。氏はピアノ演奏を達者にこなす人だったようで、ピアノ曲も少なくない。それについてはいずれきちんと目を通してみたい。また、ライフワークの1つだった「合唱のためのコンポジション」シリーズにもとても興味がある。

 ともあれ、これで昭和一桁生まれの有名作曲家(すなわち、戦後日本作曲家の隆盛をもたらした人たち)のほとんどが鬼籍に入ったことになるのだろう(ちなみに、昭和9年生まれの人は存命ならば今年で91歳になる)。まさに1つの時代の終わりの現れだと言えようか。

2025年2月18日火曜日

小学校の音楽の授業で私の心をとらえた3曲

  私の小学生時代、学校の音楽の授業で強く印象に残ったのは3曲。すなわち、ベートーヴェンのロマンス・ヘ長調、「シャシャブとグイミ」、そして、「牧人の踊り」と題された曲である(後の2曲についてはこれまでにも話題にしたことがあったかもしれない)。

最初のものについては解説を要しまい。ただ、そのどこに惹きつけられたかといえば、第2-3小節のベースの進行だ(https://www.youtube.com/watch?v=P1Ll1zvfg8E)。とりわけ第3小節で主旋律に対するベースのAEという進行にぐっと来たのである。もちろん、当時はその理屈はわからなかったが、その進行は子どもの耳をまさに「理屈抜き」にとらえたのだった。

次の「シャシャブとグイミ」はとにかく妙な曲だなと思ったし、歌詞の意味もピンとこなかった。そもそも「シャシャブ」と「グイミ」が何かについて教師の説明もなかった。自分で歌った記憶もないから、たぶん、鑑賞ということで聞かされたのだろう。だとするとそれは1回きりのことだったわけだが、それでも強烈に私の脳裏に刻み込まれたのである。その後、随分後になって調べたところ、これが高知のわらべうただとわかった(ちゃんとした音源がないのが残念:https://www.youtube.com/watch?v=KTxpabjtQ7c)。が、その編曲は何人かの作曲家が手がけており、自分が聴いたのが誰の編曲かはまだ不明。ピアノ伴奏がついていたことは覚えているのだが……(なお、この「シャシャブとグイミ」という曲の持つインパクトの大きさは、次のようなものがつくられていることからもわかる。いや、これは面白い:https://www.youtube.com/watch?v=crQVhX5Zp_M

最後の「牧人の踊り」も当時の私には摩訶不思議な音楽だったが、それだけに後々まで覚えていたのだ(これについても、教師のきちんとした説明はなかった)。そして、後年、その旋律に思わぬところで再会する。それはバルトークのピアノ曲集《子どものために》だ(面白い音源があったので、それを:https://www.youtube.com/watch?v=8nVAYbbbc04)。

 これら3曲以外にも授業中にいろいろな音楽に触れ、それなりに楽しんだり感動したりしていたはずだが、忘れがたいものとしてあげられるのはその3曲のみ。これは「少なすぎる!」と見るべきか、それとも、「3曲もあれば御の字だ」と言うべきか……(言うまでもないが、学校の外ではもっと数多くの音楽が私の心をとらえていた)。

2025年2月17日月曜日

リリー・クラウスが弾くモーツァルトのピアノ協奏曲

  モーツァルトの交響曲はすべてが名作だというわけではないが、ピアノ協奏曲はハズレなしで、どの曲を聴いても面白いし、いろいろな工夫に唸らされる。

このところ楽しんでいるのはリリー・クラウス(1903-86)独奏の録音だ。彼女の表現は一見すっきりしているが、音楽のドラマを過不足なくとらえており(https://www.youtube.com/watch?v=j2FE96nvxnA)、こうしたものを聴くと昨今の少なからぬモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏は「演出過剰」か逆に「舌足らず」かに感じられてしまう(言うまでもないが、現代にもすばらしい演奏はある。ただ、私はブレンデルの演奏も好きだが、遠山一行がそれを「マニエリスム」と評するのもわかるような気がする)。ともあれ、クラウスの躍動感溢れる演奏を午前中に聴くと、その一日がなんだかうまくいきそうな気がしてくる。ぜひ、お試しあれ。

2025年2月16日日曜日

今日もNHK-FM「現代の音楽」を聴く

  今朝もNHK-FMで「現代の音楽」を聴く。独奏チェロと電子音響による作品を取り上げた演奏会の録音。

最初の作品、渡辺愛《アンイマジナリー・ランドスケープ》(2012)は美しい(自然音の加工も含む)電子音響とこれまた美しいチェロの音楽が織りなす対話(元々の独奏楽器はチェロではなく、アルト・サクソフォンだったとか)。これには理屈抜きに聞き入ってしまった。ただ、もしかしたら独奏楽器が奏でる音楽の「美しさ」や「甘さ」がもっと控えめであった方が作品全体としていっそう効果的だったかもしれない。とはいえ、魅力的な作品であった。

 次の作品、リチャード・バレット(1959-)の《Blattwerk(「木の葉」「葉状装飾」の意)》(1998-2002)。いわゆる「新しい複雑性」に与する作曲家の手になるものだけに、聴くからに弾くのがたいへんそうだった(後で別の演奏者による楽譜つき動画を見て見ると、やはり……:https://www.youtube.com/watch?v=oVcB9TwJWaQ)。耳で聴いた限りでの第一印象は「1960年代の前衛の蘇り」でしかなかった(電子音楽技術の面では当時とは大きな違いがあるとはいえ)。魅力的な瞬間もそれなりにあるのだが、なぜ、世紀の変わり目になって、演奏者に難行苦行を強いてわざわざこのようなことをやるのかがよくわからないというのが私の正直な感想だ(番組の「埋め草」にそのバレットのアンコール・ピース《陰》(2010)が取り上げられていたが、こちらはもっとすっきりとしていて魅力的な曲だった(https://www.youtube.com/watch?v=olFd9TfrBr4)。まあ、楽譜を見ると、とんでもなく複雑なのかもしれないが……)。もちろん、作曲家当人はそのような複雑に書く必然性があるのだろうし、そのこと自体を非難するつもりはない。が、私個人はそうしたものにはついていけないし、ついていく気もない。

 

 この「現代の音楽」に続く番組、「名演奏ライブラリー」では往年の名歌手、エルンスト・ヘフリガーが取り上げられていた。特に何の期待もなく惰性で聴き続けていたところ、すぐにそのすばらしさに耳を奪われる。とりわけ、シューベルトの《水車屋の美しい娘》に。こうしたものを「現代の音楽」と続けて聴くと、やはり考えさせられてしまう。「音楽とは何なのか?」と。現代には現代なりの音楽表現があってしかるべきだと思うが、それを作曲家の独創性ということだけに任せておいてよいものかどうか……。

 

2025年2月15日土曜日

いずみシンフォニエッタ大阪の第53回定期演奏会

  今日はいずみシンフォニエッタ大阪の第53回定期演奏会へ(https://www.izumihall.jp/schedule/20250215)。今回は「五大陸を巡るシン・音楽漫遊記」と銘打たれており(そのコンセプトについては上記リンク先を参照のこと)、演目は次の通り:

 

【アフリカ】M.ブレイク:クウェラ

【ヨーロッパ】P.ブーレーズ: Dérive I

【アメリカ】H.ヴィラ=ロボス: ファゴットと弦楽合奏のための7つの音のシランダ

【オセアニア】C.ヴァイン: オーボエ協奏曲

【アジア】室元拓人: 委嘱新作(関西出身若手作曲家委嘱プロジェクト第10)

 

委嘱新作初演を含む興味深い演目であり、全体として楽しく聴かせていただいた。というわけで、はじめに演奏者、作曲者、企画運営に携わった方々に篤く御礼を申し上げたい。

 さて、それはそれとして、以下、感想を自由に述べていこう(あくまでもそれは私個人のものに過ぎず、多少の暴言はご寛恕のほどを)。

 最初の演目、ブレイクの《クウェラ》は完全にモーダルな音楽で、単純な和声進行の上で繰り広げられる音の戯れ(現代音楽版パッサカリアとでもいえようか)は演奏会全体の「序曲」としてはなかなかよい。この作曲者が他にどんな曲を書いているのか、ちょっと聴いてみたい気がする。

 続くブゥレーズ作品はいかにも彼らしいもので、響きは文句なく美しいが、私にとってはただそれだけのものでしかなかった(「作曲家」ブゥレーズ・ファンの方々、おゆるしあれ)。他の曲との関連でなぜこの人のこの曲が選ばれたのか、かなり不可解である。

 前半最後のヴィラ=ロボスはまさに彼一流の楽しい音楽だった。必ずしも傑出した作品というわけではないが、彼の音楽を聴くと幸せな気分になれる。演奏もよかった。

 後半はじめのヴァイン作品も完全にモーダルな音楽であるのみならず、書法も伝統的なものだった。が、もちろん、そんなことはどうでもよい。肝心なのは音楽の中身であり、その点でこのヴァイン作品はそれなりに聴き応えのあるものだった。が、もしかしたら、それは演奏者、すなわち、オーボエ独奏の古部賢一といずみシンフォニエッタ大阪の力によるところの方が大きかったかもしれない。いずれにせよ、これも実に楽しく聴かせたもらった。

 さて、最後の委嘱新作だが、実のところ私はこれが目当てだった。ある時期以降、私は新作初演で感動したことが全くなく、それだけに「今度こそは!」と思ってしまうのだろう。が、正直に言えば、今回もまた作曲家の筆の冴えに「感心」はさせられたものの、「感動」はできなかったのである。残念。作品がある意味で実によく書けたものであり、作曲者が真摯に創作に取り組んでいることは一聴すれば十分にわかる(それゆえ、この作品に感銘を受ける人がいても当然だと思う)。が、それはそれとして、今回の作品には私の心に突き刺さる音はなかった(それが1つでもあれば、「もう一度聴いてみたい!」と思うところだが……)。結局、この類の作品にとって、私は「よい」聴き手ではないのかもしれない。では、他の人はこの作品をどんなふうに聴いたのだろう? 感想を聞いてみたいものだ。とりわけ「現代音楽」業界以外の人に。

 ともあれ、最後にもう一度、今日の楽しい演奏会に心からの感謝を。

2025年2月14日金曜日

ブラームスのシュルピアニスムのお手本は

  ブラームスの作曲技法はベートーヴェンにも負うところが多いが、「シュルピアニスム」の点でもこの巨匠はブラームスのお手本だったかもしれない。ベートーヴェンこそはまさに「シュルピアニスム」の大家だから。

 

  チャールズ・アイヴズの「コンコード・ソナタ」は「シュルピアニスム」の格好の例であり、屈指の名作である(私がマルカンドレ・アムランによる同曲の「立派な」演奏を好きになれないのは、たぶん、このこととも関係があるように思われる)。

この曲に限らず、彼の作品には大なり小なりこの「シュル(超)」という性格(と、その土台をなす「理想主義」)があり、それがかつては多くの演奏者や聴き手を遠ざけていたのだろう。だが、逆にそこに魅せられた人たちも少なからずいたからこそ、作品が完全に埋もれてしまうことはなかったのだろう。

 ああ、この「コンコード・ソナタ」が実演で聴ければなあ。

 

 私には文楽(浄瑠璃)に「お勉強」目的で近づいたわけではない。それは純然たる楽しみとしてあるものだ。が、そこで得られる知見は、自分が関心を持って調べていたある作曲家の作品をよりよく知る上でまことに有益なものだと遅ればせながら気づく。ということは、もしかしたら、無意識の「必要」が私を文楽に引き寄せたのかもしれない。 ともあれ、今年は文楽を楽しみつつ学び、同時にその作曲家についての考察を深めてゆきたい。

2025年2月13日木曜日

シュルピアニスム

  昨年、学生の論文作成につきあってブラームスの晩年のピアノ小品を眺めていたとき、ふと、「シュルピアニスム surpianisme」という語を思いついた。もちろん、「シュルレアリスム  surréalisme」のもじりである。

リストなどの「超越技巧」はどこまでもピアノという楽器を忘れさせてくれないのに対し、ブラームスのピアノ小品ではどこかピアノの現実を超えたような響きや書法にしばしば出会う。そうしたものを言い表すのに、この「シュルピアニスム」という語はうってつけではなかろうか? 

 他にもこの語が似合う作品はいろいろあろう。たとえば、超絶技巧ピアノ曲でありながら、この「シュルピアニスム」をも示しているのがアルベニスの《イベリア》だろう。なお、弾き手のことをまるで考えていないようなある種の「現代音楽」ピアノ曲については私はこの語を用いたくはない。

2025年2月12日水曜日

何とのどかな音楽

  昨日、なぜか次のようなものを聴いてしまった:https://www.youtube.com/watch?v=9Tv8ZxZhfAE&list=PLJk2lr_LwU0PHYQbYutnqXKrO2rs2kKx119815月の放送だというから、今から44年前のものである。「クラフトワーク」といえば「テクノポップ」の先駆者でありYMOに影響を与えたバンドだが、私はテクノが好きではない。にもかかわらず、昨晩はそれを楽しく聴いた。そして、思った。「ああ、何とのどかな音楽であり、のどかな時代だったことか」と。当時ならば先端を行く尖った音楽に聞こえたはずなのに。

 「サウンドストリート」という番組も放送当時にはほとんど聴いていない。私が日頃聴いていたのはその前の時間帯にあったクラシック音楽の番組だった。が、こうして当時の録音を聴いてみると、「ああ、もっと聴いておけばよかった」と思う(ちなみに、妻は佐野元春が司会の日を欠かさず聴いていたそうだ)。昔からもっとポップスに積極的に馴染んでいたら、その後の自分の人生のありようも少なからず変わっていたかもしれないなあ。

 

 今日は今日で、「目覚まし」のための朝のクラシック音楽番組の後も何気なしに聴き続けていると、「音楽遊覧飛行」という番組で懐かしの昭和歌謡が次々と流れてきた。その中にチューリップの《サボテンの花》(https://www.youtube.com/watch?v=VaxbB-DBPPo)があったのだが、つい聴き入ってしまう。そして、思った。「ああ、何とナイーヴな曲であり歌詞なのだろう」と。その曲に何かしらシンパシーを覚えつつ。

2025年2月11日火曜日

ヘンレ社のシェーンベルク『ピアノ曲全集』

  昨年、シェーンベルクの生誕150年に合わせてだろうか、ピアノ曲全集の楽譜がヘンレ社から出ている。同社はUrtext出版の老舗だが、近年、この作曲家の作品と取り上げている。それは版権が切れたこととも無関係ではあるまい。同じことはプロコフィエフなどについても言えることで、これから20世紀の(版権の切れた)作品がどんどん綿密に校訂された楽譜が出版されていくことだろう。

そのヘンレ版のシェーンベルクピアノ曲集では88頁の楽譜本文に対して註解は28頁にも及ぶ。それだけ注意深く校訂されており、また、そこで指摘すべき問題点を従来の版が持っていたということであろう(同版には元の出版社の版はもちろん、ショット社から出ている『シェーンベルク全集』とさえ異なる箇所があった)。

 もちろん、新しい版が絶対に正しいというわけではない。中には新たな誤りを生み出している場合もあろう。それゆえ、ヘンレ版シェーンベルクも注意深く読み解いていく必要がある。が、とにかく、この版の登場を大いに歓迎したい(なお、シェーンベルクのピアノ曲が1冊に収められたものは――全集版を除けば――これがはじめてだ。ショット社から出ている『全集』に基づく普及版の楽譜はぜか「選集」であり、作品23が抜けていた。たぶん、当時、版権の問題があったのだろう)。

 

 お勉強でスクリャービンのソナタの楽譜をあれこれ見ているが、春秋社から出ている『ソナタ集2』(すなわち、後期ソナタ5曲を収めた巻。私の手元にあるのは2022年の第7刷)には意外にも――というのも、同社の楽譜を私は大いに信頼していたからだが――間違いがあれこれ見つかった(臨時記号やタイの脱落、音の誤りなど、総計26箇所! 検討を要する箇所が2つ)。この複雑な作品の性質上、ノーミスというのはなかなか難しかっただろうが、増刷する際に訂正はできたはずだ。同社はこのところピアノ曲集増刷の際に新装版を出しているが、このソナタ集もその機会に訂正されて欲しいものだ。同社の楽譜を長年愛用し、これからもそうあり続けたいと思っている者として(『ソナタ集1』にも誤記はいろいろ――ざっと見たところで10箇所。そのほとんどは第5ソナタに――あったのだが、すでに出ている新装版で訂正されているかが気になるところ。それにしても、同社の森安芳樹校訂版の精緻さと入念さを思えば、別の編者によるスクリャービン集は些か杜撰だと言わざるを得ない。残念である)。