2025年2月7日金曜日

実現されなかった可能性を探る

  人生は数え切れない選択の連続と積み重ねであり、その都度、さまざまな可能性が開かれていたはずである。だとすれば、たとえばある作曲家の創作をそれが終了した時点からそこに到る「必然」としてとらえるのは、間違いではないかもしれないが、それが唯一の正解だというわけでもあるまい。

作曲家の創作史を注意深く辿るならば、「もし、あの時点で異なる選択をしていたのならば、その後の創作のありようももっと違ったものになっていたのではないか?」と考えたくなるようなものが所々に見えるはずだ。そして、そこからその作曲家の「結果として実現されなかったものの、もしかしたらあったかもしれない」別の創作の方向性を想像することもできよう(こうした「想像」(妄想?)は自身が創作を行っている者にとっても有益であろう)。

この点で私が興味を持っているのは、たとえばスクリャービンだ。彼の第5ソナタから後期ソナタ群への歩みを「必然」とみなすのではなく、もっと違った可能性を前者のうちに見出し、その発展形をあれこれ思い浮かべてみるのは楽しい。あるいは。ヴェーバーンなども、もし12音技法を採用していなければ、あの豊穣な無調期の音楽はどのように展開されただろうか?

 

インターネットの種々の記事への匿名コメント欄がなければ、人々の心はもう少し穏やかになるだろうに。