楽譜を読んでいると、しばしば、同じフレーズやパッセージの反復や再現と覚しき箇所で、音やアーティキュレーションなどが異なっている場合が見つかる。その中にはたんなる誤記や省略もあれば、作曲者が意図的に違ったふうに書いているものもある。そして、その判断はなかなかに難しい。
昨日話題にしたラヴェルの《鏡》第1曲の場合、森安は件の箇所について、直前数小節が、その前に出てきた同様なパッセージを「そっくり完全5度下に移調したものであること」(森安版『ラヴェル全集1』、(16頁))を理由に、既存の版に書かれている音について、「可能性は皆無といってよい」(同)と断じている。なるほど、この説明は論理的であり、これが正しい可能性は十分にある。
が、それはあくまでも「可能性」に留まる。というのも、このような場合に作曲者が敢えて異なる音を書く可能性も完全には否定できないからだ。ただ、その判断は作曲家の性格によって違ってくる。たとえば、シューマンの(少なくとも)初期ピアノ作品群であれば、このような場合に「異なる」音が楽譜に書かれていたとすれば、それは誤記だと考えてまず間違いない。というのも、彼は同じフレーズやパッセージの反復や再現に際して律儀なほどに「同じ」ことを書いているからだ(そのために音楽がくどくなりすぎている場合も少なくない)。他方、ショパンはといえば、シューマンとは対照的に何かしら違ったことをしている場合が少なくないので、すぐには「誤記」だと断定はできない。では、ラヴェルの場合はどうなのだろう? それは彼の他の作品にも細かく目を通し、このような場合に彼がどう対処しているのか――すなわち、彼の「様式」――を把握した上で「推論」するしかない。
こうした「推論」は楽譜の校訂者のみならず、楽譜の「読み手」にも要求されよう。なんとなれば、完全な楽譜などというものは存在しえないからだ。そして、そもそも楽譜から(頭の中に思い浮かべるものも含めて)現実の音を立ち上げる際に各自が楽譜に数多ある「空所」を埋めていくしかないからだ。それが本当の意味で「楽譜を読む」ということであろう。