2020年10月31日土曜日

アマチュア向けの良質な作品を待望する

  19世紀のピアノ曲の少なからぬものは一般の愛好家向けの作品、つまり、アマチュアが自分で弾いて楽しむためのものだった。あまり難しくなく、さりとて簡単すぎず、それなりに内容のある作品を当時の作曲家はせっせと書いたわけだ。

 ところが、20世紀には音楽の様式がどんどん先鋭化してゆき、そうした「アマチュア向け」作品が次第に姿を消していった。「子供向け」の作品はそれなりに書かれているものの、大人向けの作品はあまりない。

 そこで、この21世紀には「大人のアマチュア向け」作品を作曲家はもっと書けばよいのではないか。今やどんな様式を用いてもかまわないだけだから、調性があってもよし、なくてもよし、思い切り古風な様式でもよし、前衛的な様式でもよし。とにかく、実際にアマチュアが喜んで弾く、内容のある音楽を書けば、インターネット時代のことゆえに、それなりに受容される可能性はあろう。

 

2020年10月30日金曜日

音楽作品の「生」

 人と同様、「作品」も歳を取る。生まれたての作品にはどこか危なっかしいところがあるが、演奏を重ねるにつれて次第に成長してゆき、「若さ」に輝く時期を経て、成熟に至る。そして、多くの場合、「死」を迎える――つまり、誰からも顧みられなくなるのだ。

 とはいえ、中には演奏家の創意工夫によって「若返り」に成功して生を永らえている作品もあれば、一度死んだのちに演奏家や聴き手の力で「復活」する作品もある。

このように個々の音楽作品を見つめ、各々の作品の「生」をそれに関わる人の営みとともに描いてみると面白かろう。

 

昨日話題にしたロスバウトの指揮、南西ドイツ放送交響楽団の演奏でメシアンの《トゥランガリーラ交響曲》をCDで聴いたが、その若々しい音楽に打たれた(全10楽章のうち、第5楽章:https://www.youtube.com/watch?v=w9IMipkzKMg)。作曲(1949年)のわずか2年後の録音である。まさに「作品」も、その「演奏」もまだまだ若い頃の(そして、今日でもなかなか聴けない優れた演奏の)貴重な記録である。

2020年10月29日木曜日

ハンス・ロスバウトへの興味

  ハンス・ロスバウト(1895-1962)といえば、「現代音楽」を得意とした指揮者で、同世代のヘルマン・シェルヒェン(1891-1966)と双璧を成す存在だ。が、私はこれまで後者の録音はそれなりに熱心に聴いてきたが、前者についてはそれほどでもなかった。が、このところ、そのロスバウトに深い興味を抱きつつある。「現代」ものの演奏の見事さについては種々の録音で知っていたが、それ以外の作品の演奏をいくつか聴くにおよび、この指揮者の偉大さにようやく気づいた次第。

 シェルヒェンも「古典」をこなし、しかも、その多くは「面白すぎる」。その点、ロスバウトはそれほど奇をてらったことはせず、かなり素直に作品に向かっている。が、音楽の組み立てを精緻に描き出すだけではなく、何とも自然に音楽の流れを聴かせるロスバウトの手腕は実に見事。たとえば、シベリウスの第2交響曲では「構造」と「音響」の両面にバランスよく聴き手の耳を向けさせつつ、音のドラマとしても説得力を持つものをロスバウトはつくりだしているのだが、こうした演奏を私は他には知らない(もちろん、他の面で魅力的なこの曲の演奏はいろいろあるが)。チャイコフスキーの第5交響曲などでも、やはり「知と情」のバランスが絶妙だ。というわけで、これからこのロスバウトの録音をあれこれ聴くのが楽しみだ。

2020年10月28日水曜日

作曲家はどの季節を選ぶのか?

  武満徹には《秋》と《冬》という管弦楽曲(前者は《ノヴェンバー・ステップス》と同じく尺八と琵琶を独奏とする二重協奏曲)がある。「春」と「夏」がないのは(「四季」という打楽器曲はあるものの……)、武満の音楽の雰囲気からすればいかにもとうなずけるところだ。別宮貞雄には「春」と「夏」と銘打たれた交響曲が2曲あり、「秋」と題したチェロ協奏曲もあるが、「冬」はない。これも別宮の作風や音楽の志向からすれば、やはり「なるほど」と思う。他にも四季にちなむ曲を書いている作曲家はそれなりにいるだろうが、そこでどの季節を選んでいるかを調べたら面白かろう。たぶん、その人の作風と何かしら相関があるのではないだろうか。

 私が四季絡みの曲を新たに(と言うのも、すでに〈冬の夜〉というピアノ曲を昔書いているからだが……)書くとすれば、何よりも「春」を選びたい。一年のうちでもっとも好ましい早春を念頭に置き、冬が開けて春を迎える喜びを(器楽で)うたいあげるだろう。そして、次は「秋」だ。「冬」も書くかもしれないが、私にとって受難の季節たる「夏」はありえない。