2020年10月10日土曜日

『演奏行為論』の「序章」より

  [……]全体は大きく二つの部分からなる。すなわち「演奏の諸相」と題した第1部と「演奏の行為論と題した第2部だ。第1部では、具体的な事例に即しながら演奏行為にとっていくつかの重要な局面を描き出しつつ、そのありようと意味を考える。他方、第2部では、それまでに出てきた種々の論点を統一的にとらえる理論的視点を提示し、さらに実践に関わる提案を行う。

 第1部の劈頭を飾るのは1章「バッハをピアノで弾く――演奏の平行(パラレル・)世界(ワールド)――」。ここでは、J. S. バッハのクラヴィーア作品をピアノで弾く事例の検討を通して、演奏が多種多様なあり方をする「現実」を確認し、演奏を作品「解釈」という面からのみとらえることの限界を説く。

 とはいえ、もちろん、西洋芸術音楽の演奏で「解釈」の問題を避けて通るわけにはいかない。そこで、2章「作曲家の代理人?――解釈としての演奏――」ではそれを扱う。「解釈」とはつまるところ「正しさ」を求める行為なのだが、実のところその成否は原理的には確かめようがない。にもかかわらず、これが演奏行為の中核を成しているのは間違いなく、そのことをどうとらえるかが本章での焦点となる。

 続く3章「作品から遠く/近く離れて――創造としての演奏――」では、演奏におけるもう一つの大切な局面として「創造」を論じる。それはたんに演奏「解釈」に加味される要素などではなく、場合によっては「解釈」を、ひいては作品を破壊しかねないものだ。が、この局面があればこそ、演奏という行為には広がりと膨らみができ、また、今日でも古典作品を繰り返し取り上げる意味と意義もあろうというもの。

 だが、演奏行為にはさらにもう一つ別の局面を見ないわけにはいかない。すなわち、「技芸」である。それを論じるのが4章「演奏それ自体――技芸としての演奏――」。たとえば、いわゆる「ヴィルトゥオーソ」の演奏は「表面的で内容空疎」などというふうにしばしば評される(註1013 を参照)が、それが少なからぬ聴き手を魅了してきたのも事実。いや、ヴィルトゥオーソだけではない。技巧的には必ずしもうまいわけではないのに、妙に心をとらえる演奏もある。ともあれ、いずれにせよ、こうした演奏のありようは「解釈」や「創造」といった観点からはとらえきれないのだが、それをうまく掬い取ることをここでは試みたい。

 ところで、演奏は他者に聴かせるものである以前に、自身で音楽を知り、味わう場である。また、演奏はそれを専門とする人たちだけのものではないし、直接それを行う人だけのためのものでもない――5章「内向きの演奏、アマチュア、聴き手」では、こうした通常の演奏論では取り上げられない問題を論じ、演奏行為というものが結局は、それに関わる者同士の相互行為であることを確認する(と共に、第2部への橋渡しを行う)。

 第2部の最初にくる第6章「音楽作品の演奏ゲーム」では、第部での論点の統一を図りたい。ここではルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」を橋爪大三郎が「解釈」したものを参照しつつ、演奏行為を「規則に従って営まれるゲーム」とみなす。そして、音楽作品をめぐる「解釈」「創造」「技芸」という三つの異なる(しかも、専門家/アマチュア、演奏者/聴き手、というふうに立場の異なる複数の参加者が営む)ゲームの絡み合いとして演奏をとらえる。

 最後の7章「演奏のマネジメント論――コミュニケーションの場としての演奏――」では、ピーター・F. ドラッカーのマネジメント論(と、それをコミュニケーション論に読み替えた安冨歩の論)に拠りつつ、演奏行為の「実践」の可能性を探る。すなわち、「演奏」行為のありようは決して一元的な価値観に縛られるものではなく、各人が己の目的や望みに応じて決め、行うことができるものであって、そのことがコミュニケーションの豊かな場を拓くことに繋がる、ということを論じたい(なお、「補遺」として、「演奏について考えるためのCD50選」を巻末に付けた。選んだのは、いわゆる「名曲・名演奏」の類ではなく、本文で述べたことを実際の音で註釈してくれる音盤だ。必要に応じて活用して(また、読みものとしてもお楽しみ)いただければ幸いである)。

 正直なところ、本書は音楽を楽しんでいてそのことに何の不満も覚えない方には無用の長物だろう。だが、もし、ほんの少しでも「演奏とは何か?」ということが気になったり、あるいは、自分で演奏をする際にあれこれ考えたりする方であれば、それなりに面白くお読みいただけるはずである。そして、そのことで読者諸氏の(音楽)生活にたとえわずかでも刺激をもたらすことができるとすれば、それに勝る喜びはない。[……]