少年時代、クラシック音楽を聴き始めた頃、音楽関連の本にもいろいろと読んだ。自分で購う余裕はなかったので、学校の図書室、そして、市立図書館の蔵書を手当たり次第に。当然、中には全く歯が立たないものもあったが、それはそれ。むしろ「何でも読んでやろう」式の読書は自分の知見と音楽への興味を広げてくれたと思う。
そうした読書の中には武川寛海(1914-92)という人の著書が何冊か含まれていた。別にこの著者がお目当てだったわけではなく、たまたま読んだものがそうだったというにすぎない。が、氏が書いた音楽史の「こぼれ話」は初学者ならぬ初楽者だった私には十分面白かった。というわけで、「武川寛海」というどことかくいかめしい名は著書に掲げられていたこれまた些かいかめしい容貌とともにしかと私の脳裏に刻まれたのである。
まさにその頃、巷では「ゴダイゴ」というバンドが活躍しており、《ガンダーラ》《モンキー・マジック》《ビューティフル・ネーム》《銀河鉄道999》などのヒットを次々と飛ばしていた。そのバンドのリーダーはタケカワユキヒデ(1952-)といい、リード・ボーカルを務めるとともにそれらのヒット曲(それらは今聴いても名曲だと思う。タケカワユキヒデはなかなかのメロディ-・メーカーである。そして、それを見事に彩ったのがミッキー吉野(1951-)の見事なアレンジだ)の作曲も手がけていた才人である。そのスマートな姿と相俟って、子供心に「かっこいいなあ」と素直に思った。
ところが、その後、「ゴダイゴ」のタケカワユキヒデが武川寛海の子息だと知り驚いた。あのいかめしい著者とスマートな青年がどうしても結びつかないのである。それゆえ、そのときは「まあ、親子だからといって、必ずしも似ているとは限らないではないか」と自分を納得させたものだった。……が、それからかなり時が経ち、テレビだったかでタケカワユキヒデの顔を見たとき、さらに驚いた。何としたことか、あの武川寛海と同じ顔だったからである。そして、このときは「ああ、遺伝子の力というのは凄いものだなあ」と勝手に納得した次第。
さて、私にとって「武川寛海」の名は長らくクラシック音楽の「軽い読み物」の著者だったが、その後、種々の翻訳も手がけていたことを知った(その中にはパウル・ベッカーの著作やノッテボームの『ベートヴェニアーナ』も含まれている)。また、作曲家の下総皖一(1898-1962)の下で作曲も学んでいたことも(下総が師のヒンデミットの『作曲の手引き』を訳したものの後書きに、この武川の名も出てくる)。日本の西洋音楽受容研究はやがて、こうした武川のような人も取り上げるときがやってくるであろう。