「現代音楽」と呼ばれるものがある。文字通りのこの現代の音楽ではなく、二〇世紀の西洋芸術音楽の中で何よりも「新しさ」を積極的に追求した音楽を指す(定義は改めて第1章で行う)。「新しきことは良(善)きことなり」というのは近代以降の西洋を濃厚に彩った気分だが、それが猖獗を極めたのが二〇世紀という時代だった。あらゆる分野で次々と新しいものが見出され、生み出されていく(と同時に、昨日のものが弊履のごとく捨て去られていく)中で、芸術もこの流れに棹さして、表現の手段や領域を急速に拡げていったのである。
音楽もまた然り。たとえば、誰かがそれまでに全く考えられなかったような斬新な響きを生み出す。すると、それに触発されてさらに別の新しい響きが考え出され、これがまた他を刺激する――現代音楽においては、こうした連鎖反応が(とりわけ第二次大戦後の)かなり短い期間に激しく起こった。そして、新たに生み出されたものの多様さと変化の速さにおいて、この現代音楽は、西洋芸術音楽史上、特異な光彩を放つこととなる。
ところが、奇妙なことにと言うべきか、あるいは面白いことにと言うべきか、この二〇世紀の申し子たる現代音楽は、同時代の大方の人々には評判が悪かった。たとえば、バッハ、モーツァルトやベートーヴェン、ショパンやシューマン、ヴァーグナーやヴェルディ、ドヴォジャークやチャイコフスキーらの音楽を好む人は多い。だが、そのように遙かに遠い過去の音楽を愛でる者の数に比べて、身近な時代のものである現代音楽への共感者は際立って少ないのだ。一部の愛好家を除いていったい誰が、現代の名作曲家、たとえばドナトーニやカスティリオーニ、バラケやグリゼー、B. A. ツィマーマンやラッヘンマンたちの名を知っているだろう? 指揮者としてのマデルナ、ブーレーズやギーレン、あるいはシノーポリの聴き手のうちのどれだけが、その演奏活動に対するのと同等の興味を彼らの作品へ向けたことだろう? 現代人に不人気な現代音楽とは、これ如何に。
とはいえ、本書、まさにこの「現代音楽のどうしようもない不人気」を端緒に、そうした音楽のありようを読み解いていこうとするものである。何も、「だから現代音楽など、所詮、無意味だった」などと、時代の熱気が冷めてしまった今現在の立場から賢しげに言うためではない。大方の人々を疎遠ならしめたものの中にこそ、良くも悪くも現代音楽の特質が如実に見て取れるからなのだ。かつてオルテガ・イ・ガセットが「大方の人々への不人気」という視点から現代音楽、ひいては現代芸術の美学をごく簡潔にだが論じたことがあるが、本書もその顰みに倣うものである。ただし、オルテガが具体的な事柄にあまり深入りせずに抽象論を展開したのに対して、本書ではなるべく実際の音楽のありように即して現代音楽の不人気さの内実――言い換えれば、現代音楽とそれ以前の音楽を決定的に分かつもの――を問うことから、その音楽のありようや意味・意義に迫ることにしたい。
(以下、次回)