さて、こうした本書だが、大きく二つの読者層を想定している。まず一つは、現代音楽に不快感を催すか、さもなくば関心の薄い、だがそれ以外の音楽を愛好する人たちである。そして、もう一つは、若い世代の音楽家(とりわけ作曲家)の卵たちである。本書は何よりもまず、こうした人たちに対する「現代音楽の批判的手引き」たらんとするものである(もちろん、それ以外の人たちにも楽しんで読んでもらえるように工夫はしたつもりである)。ただし、何も現代音楽愛好者を増やそうとの下心あってのことではないし、逆に現代音楽嫌いを助長しようとしてのことでもない。あくまでも、今現在にふさわしい音楽のありようを読者が自分なりに問うための材料を提供することこそが、本書の最大の目的に他ならない(本書では専らクラシック音楽の末裔としての「現代音楽」のみを論じるが、そこでの種々の論点は他のジャンルの音楽や芸術にとっても決して無益ではないと思う)。
ともあれ、そうした目的のため、本書では過度に専門的な議論は避け、場合によってはかなりの単純化も恐れずに現代音楽のあり方に切り込んでいくことにする。それゆえ、類書のごとく痒いところに手が届くような情報提供は期待しないでいただきたいが、本書のような流儀でこそはじめて見えてくる事柄もあると私は信じている。もちろん、その内容の適否の判断は読者諸氏に委ねたい。
最後に、正直に告白しておけば、私自身は現代音楽に対して複雑な思いを抱いている。すなわち、そうした音楽(のすべてではない。もちろん)にかなり強い愛着がある一方で、相当辟易させられているところもある。そして、かように「愛憎相半ばする」(さらに正直に言えば、今は「憎」の気持ちの方がやや強い)音楽について論じるのに、淡々とした記述に終始するのは難しい。それゆえ、ときには現代音楽讃歌を唱えることもあろう。また逆に、現代音楽に対してかなり辛辣な物言いをする場面もあろう。だが、それらは現代音楽を手放しに礼讃するためでもなければ、一方的に非難するためでもない(そのどちらかに傾くのは容易かつ安易なことだ)。ここではあくまでも、生産的な批判・批評として現代音楽論を繰り広げるつもりである。現代音楽の「賛」と「否」の間を激しく振り子のように揺れ動きつつ。
(完。明日は『演奏行為論』 の詳細目次を掲載予定)