2020年10月7日水曜日

『黄昏の調べ』より「はじめに」(2)

 では、いったい何ゆえに、その熱気が昔のものとなった現代音楽のありようを今わざわざここで問題とするのか? それは、過去の経験に学びつつ、次のようなことを最終的に問わんとするがために他ならない。すなわち、「この現代において、新たな音楽の創造は果たして可能なのか? また、そもそもそれが本当に必要なのか? 仮に必要なのだとすれば、どんなものでありうるのか? 逆に不要なのだとすれば、他にどんな道がありうるのか?」ということをである。もちろん、この大胆な問いに対して本書で扱いうる音楽の範囲はごく限られたものでしかない(広い世界の多種多様な音楽のことを想起されたい)。しかも、その狭い範囲の中ですら明確な答を出すのは難しいだろう。だが、たとえそうであっても、否、むしろそうだからこそ、この難題に向かって本書は敢えて歩み出そうとするものである。一つには、今現在生み出されている音楽に対する受け手の側からの応答としてであり、もう一つには、これからの音楽文化に対するささやかな一つの問題提起としてである。

そこで、本書は次のような構成を採る。まず、論の経糸をなすのは、「現代音楽の興亡」という副題を付した三つの章だ。各章は現代音楽の揺籃期(二〇世紀初頭から第二次大戦終戦まで)、盛期(戦後から一九六〇年代まで)、衰退期(一九七〇年代以降)に対応する(ちなみに、本書の書名にある「黄昏」という語は、まさにこうした歴史の移り変わりを見据えてのものである。と共に、西洋=オクシデント(「日没の地」の意)の音楽を対象としていることにもよる)。ただし、そこで扱うのは普通の意味での「歴史」ではない(それゆえ、その点を詳しく知りたい方はどうか別書に当たっていただきたい)。これら三つの時期を「クラシック音楽の解体と新たな創造の試み」の過程としてとらえつつ、各時期に見られるごく限られた事柄に焦点を合わせて現代音楽の本質を描き出すのがここでの狙いである。そのため本書で論じる作曲家や作品の数は極端に少ない。アドルノが名(迷)著『新音楽の哲学』において二人の作曲家しか論じなかったのと同様にだ(その代わりに、巻末に「現代音楽の名曲を聴く――CD50選」と題したCD案内を付け、本論での情報の欠を幾分なりとも補うことにしたい。とはいえ、ここでも曲数を制限し、私が心底共感できる作品のみを取り上げる)。

この経糸に絡む緯糸となるのは、そうした音楽を作曲、聴取、演奏といった各々異なる関わり方から見る、やはり三つの章である。それらの立場の違いは、同じ(ものだとされる)音楽に対する――突き詰めれば、決して解消しようのない――見え方のズレを生み出すであろうが、却ってそのことが現代音楽の特質をより鮮明に浮かび上がらせてくれるはずだ。そして、以上の経糸と緯糸が交互に織りなされた六つの章を挟むかたちで、現代音楽の来し方と行く末を論じる章が前後に一つずつ置かれる――という構成になる。

                                (次回で完結)