ナディア・ブゥランジェはベートーヴェンとマックス・ブルッフの作品について、こう言う。「その二つじゃあ、あまりにも差がありすぎますよ! まるでヒマラヤか、モンマルトルの丘か、と言うようなもんです!」(B. モンサンジャン『ナディア・ブーランジェとの対話』(佐藤祐子・訳)、音楽之友社、1992年、219頁)。そして、さらにこうも。「私の人生においてベートーヴェンのことを考えない日は滅多にありません。しかし正直なところ、マックス・ブルッフについて考える日は皆無に等しいと申さねばなりません」(同)。まあ、確かに正直な言葉である。そして、ブゥランジェという偉大な音楽家の価値観を示すものとして、まことに興味深い。
が、これを他の者が鵜呑みにする必要はない。なるほど、確かにベートーヴェンとブルッフの間にはブゥランジェ(のみならず、多くの音楽書で述べられている)ような「質の違い」というものはあるかもしれない(し、私もそうした見方を支持する)。が、そのことはブルッフの作品を人が愛する妨げになるものではなかろう。それどころか、人によっては「自分にはベートーヴェンやブラームスのヴァイオリン協奏曲よりもブルッフの協奏曲の方が好ましい」ということもあるはずだ。かく言う私自身、そのときの気分によっては「ブルッフの方が」ということになる。そして、かような名曲を書いてくれた作曲家に感謝したくなる。
そのブルッフのヴァイオリン協奏曲のうち、もっともよく弾かれるのが第1番だが、第2、第3番もそれに匹敵する名曲である。が、それほど演奏頻度が高くないのには、何か理由があるのだろう。
第1番でこのところ愛聴しているのが潮田益子独奏(小澤征爾指揮、日本フィル)のCDだ。大胆にして繊細な名演である。