五線による定量記譜法はかつて西洋音楽を移入しようとした日本人――すなわち、元々全く異なる音楽文化を持っていた者――にとってはまことに便利なツールだったろう。というのも、それは音楽のありようをかなりのところ可視的にしてくれ、「真似」しやすくしてくれるものだったから。だが、この「便利な記譜法」はもしかしたら、別の面ではかつての日本人が西洋音楽を深く体得することを少なからず妨げていたのかもしれない。
たとえばドイツ語のリズムは日本語のものとは全く異なる(https://kenmusica.blogspot.com/2021/05/blog-post_22.html)。そして、前者の言語の「ダイナミックな」リズム感覚は当然、彼らが実際に音楽を奏でたり、聴いたりする際にも生きていようが、そのすべてが楽譜の「字面」に書き表されているわけではない。いや、むしろ、「言わずもがな」のこととして、わざわざ記されていないことの方が多いはずだ(普通の文章に事細かく音読の仕方が併記されていないのと同様に)。 ところが、五線記譜方には他の音楽に見られるもっと単純な奏法譜(日本の伝統邦楽の多くも用いていたようなもの)よりも緻密にいろいろなことが書き表されているがゆえに、そこには却って「書き表されていないこと」から目を逸らさせてしまうということがなかっただろうか。
もちろん、そうした「言わずもがな」のことをも含めて日本人は西洋音楽を我が物にしようとし続けてきたのだろうが、果たしてその「成果」は実際にはどれほどのものなのだろうか(なお、何度でも繰り返すが、私は「日本化された西洋音楽」の意義を否定する者ではなく、むしろ、そこにしかるべき意味を認めたいと考えている。が、これもまた繰り返すが、「違い」は「違い」として認識すべきだとも思っている)。