「芸術のための芸術」なるものを私は認めたくない。芸術には「生」の何らかの局面のために(たとえ微力であっても)有益なものであって欲しいと思う。
もちろん、その「有益」の中身は人によってさまざまであろう。そして、ある芸術作品(やそのパフォーマンス)が有益であるか否かの決め手となるのは、そのもの自体のありようや質もさることながら、むしろ、その都度そうした芸術に関わりを持つ者の主体的な行為のありようだろう。となると、いわゆる「名作(名演)」であっても人によっては「有益」だとは限らないし、逆に世間的に「駄作」とされるものであってもある人にとっては輝きを放つ瞬間を持ちうるわけだ。
それゆえ、「何がすばらしい芸術なのか?」という問いよりも、「いつ、あるものが、ある人にとっては有益な芸術になりうるのか?」という問いの方が私には遙かに切実だ(から、私にとっては芸術作品の「存在論」というのはほとんど意味を持たない。否、精確に言えば、行為論とセットでのみ意味を持つ)。その根底にあるのは「いかにしてよりよく生きうるか?」という問いであり、その答えは人によりさまざまだろうが、そう問い続けることが大切なのだと私は信じている。