ベル・カントで朗々と歌われる日本の歌を聴くときに覚える何とも言いがたい気恥ずかしさ、むずむずする――歌の中で言葉が何か仰々しく、不自然でわざとらしいものになるさまにいたたまれなくなる――感じは、おそらく私個人だけのものではあるまい。
以前、《千の風になって》という歌がヒットしたとき、それをオペラ歌手がまさに朗々と歌い上げていたものが物まねによって笑いのネタにされていたのをたまたまテレビで見たことがある。もし、普通の人がそうした歌い方におかしみを覚えるのでなければこのネタは成立しなかったはずだが、それなりにウケていたところから判断するに、やはりベル・カントによる日本の歌に「むずむずする」人は少なくないのではなかろうか。
もっとも、たとえば伝統邦楽の歌い方にしたところで、聴き慣れない者にとっては妙に感じられるに違いなく、すると「ベル・カントによる日本の歌」にしたところで「慣れ」の問題だということになるのだろうか? だが、たとえそうだとしても、私個人はそうした「歌」に慣れたいとはあまり思わないし、もっと他のやり方があるのではないかと考えてしまう。この点について他の人(歌手もさることながら、むしろ聴き手)の意見を知りたいものだ。
ちなみに、私が書いたことがある歌曲はただ1つ。学部学生時代に松本清先生(松本民之助氏のご子息、かつ、松本日之春氏の弟。この松本清先生も私にとっては恩師であるが、教わったことはむしろ大学を出てから後の個人的な会話からの方が多い)の授業で課題としてつくったものだけである。当時は日本語と音楽の関係になど興味は全くなく、「自分は器楽志向の人だ」と強く思っていたので、まあ、酷いものしか書けなかった。が、今は「日本語の歌」への興味が年々強まっているので、そのうち挑戦してみたいところだ(「賽の河原地蔵和讃」も含めて)。