ふとコーニーリアス・カーデュー(1936-81)の音楽が聴きたくなり、Youtubeで検索してみたら初期のピアノ曲があったので、試してみた:https://www.youtube.com/watch?v=d_asOAHIIqA。いや、なかなかに渋い音楽である。音楽の志向ははっきりしているが、押しつけがましいところがなく、むしろ、(少なからぬ音の隙間のためもあってか)奥ゆかしささえ感じられる(楽譜を参照:http://ja.scorser.com/Out/300586463.html)。ともあれ、当時の「前衛」の書法による佳曲だといえよう(デイヴィッド・チューダーの演奏も実に見事)。
ところが、このカーデューはその後、政治にコミットし、この「前衛」路線を捨ててしまう。若くして轢き逃げ事故のために亡くなったが、もし、もう少し長生きしていたら、果たしてどのような作風を示しただろうか。同世代人でやはり政治参加を試みたのちにそこから距離を取ったフレデリック・ジェフスキのように「緩い現代音楽」(これは褒め言葉である!)を書いていただろうか、それとも芸術音楽の解体をさらに進めただろうか?
私がカーデューの作品を初めて(ラジオで)聴いたのは1980年代の初めで、「前衛放棄後」の時期の作品《ベトナム・ソナタ》(1976)だ(演奏はジェフスキ)。そこには全く難解なところはなく、むしろかなりの俗っぽささえある。楽譜(http://ja.scorser.com/Out/300586481.html)の始めにはこの曲の成立事情と用いられた素材の説明があり、作品のコンセプトがわかる(第2楽章の素材の1つは南ベトナム共和国国家――「南」ベトナムに対抗する「北」の傀儡国家で、後者の勝利後に消滅――の国歌で、その前奏はビートルズの《イエロー・サブマリン》の一節を思い起こさせる:https://www.youtube.com/watch?v=u176gFjCqi0)。だが、その後ほどなく、「帝国主義」国家に勝利したはずのベトナムはカンボジアに侵攻し、同じ共産主義の中国と対立したわけだが、理想主義者カーデューはその現実をどう「理解」したのだろうか……。ともあれ、この《ベトナム・ソナタ》はいろいろな意味で貴重なドキュメントであろう(私は皮肉でこう言うのではない)。