2022年9月9日金曜日

メモ(86)

  ハワード・S.・ベッカーの『アートワールド』は名著だと思うが(邦訳には日本語として些か読みづらいところがあるが、それでもよくぞ出してくれたものだと大いに感謝してる)、原著刊行が1982年だけに、当然ながらインターネットのことは論じられていない。だが、今やその点を考慮に入れずにアートワールド(複数形)を論じるわけにはいかない(2008年に出ている「25周年記念版」――邦訳の原本――でも残念ながらそのことには触れられていない)。

昔はアートワールドの中でその動向を左右する権威者・権力者たちがおり、いわば「上意下達」で物事が進んでいたわけだが、インターネットはそうした「構造」を少なからず変えてしまった。そこにはよい面もあればわるい面もあるが、とにかく、インターネット普及後のアートワールドはかつてのそれとは大きく様相を異にしている。

ベッカーの議論を承けてその点を論じた研究はたぶんあるのだろうが、できれば読んでみたいものだ。私ももちろん、(大いに難航している)『ミニマ・エステティカ――音楽する人のための美学――』でそのことに触れるつもり。なお、同書は当初の構想より随分シンプルなかたちを取りつつあるが、どんどんふつうの「学問」から遠ざかっていっている(まあ、私は昔から複数の人に「お前のやっていることは『学問』ではない」と言われてきているから、「何を今さら」である)。さて、どうなることやら。

 

 随分久しぶりに高橋悠治が弾くジェフスキの《不屈の民変奏曲》の録音を聴いたが、やはりすばらしい(https://www.youtube.com/watch?v=Dg4SwMOCptk)。

私が少年時代にLPで愛聴していたころにはこれしかなかった(作曲者の自演盤もあったようだが、地方ではどうしようもなかった)が、今やよりどりみどりである。とはいえ、そうしたものを試しに聴いみると、アムランをはじめとして皆ピアニストとしては高橋よりも達者なのだが、音楽として耳に引っかかるものがあまりない。どれも妙に「きれいすぎる」し、「整いすぎ」ているのだ(ただし、作曲者の自演盤は別である)。

 同じことはその高橋悠治の 60,70年代の作品を集めた作品集の演奏についてもいえる(https://www.hmv.co.jp/artist_%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%82%A0%E6%B2%BB%EF%BC%881938-%EF%BC%89_000000000012046/item_%E3%80%8E%E6%AD%8C%E5%9E%A3%E3%80%9C%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%82%A0%E6%B2%BB-%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86%E3%80%8F-%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%84%EF%BC%882CD%EF%BC%89_11603143)。昔は聴けなかった作品にそれなりの質の演奏で触れられるという点で、このCDはまことにありがたいものである。が、古い録音で馴染んできたいくつかの作品については新しい演奏に何かしら違和感を覚えてしまう。

だが、もちろん、それはあくまでも私個人の感じ方にすぎないので、それに固執するつもりはない。古典名曲にしたところで、数多の演奏様式の変化を経て現在に生き残っているわけであり、それが「現代音楽」作品でも起こったということであろう。 とはいえ、その「変化」のありようと意味についてはいずれじっくり考えてみたいと思っている。