私たちは母語を学ぼうと思って学んだわけではない。気がついたらそれが身についていたはずだ。これは音楽についても言えることだろう。物心つく頃には自分が育った環境の中にあった音楽の様式をある程度は身につけてしまっている。そして、それは意識されざる前提として人のその後の音楽とのつきあい方に大きく影響する(母語がそうであるように)。
そうした人が異なる様式の音楽を知る際にもその「前提」は陰に日向に影響を及ぼすだろう。単純に「聴けばわかる」などということはあり得まい。外国語を習得しようとする際に「口に出して話す」ことと「聴く」ことが不可分であるように、音楽の場合も(上手い下手は別としても、ある程度は)その様式に適う仕方で歌ったり、奏でたりできるようにならなければ、「聴く」ことは自分が母語のごとくに身につけた音楽様式への変換を伴わずにはおかない。
だとすると、「音(音楽)そのもの」なるものの存在はかなりのところ怪しいと考えざるを得ない。……が、これはあくまでもゲームの「外」からの視点。「内」から見れば、「音(音楽)そのもの」は実在すると考えて差し支えない。どちらか一方の視点が正しく、他方が誤っているということなのではない。が、無条件に「音(音楽)そのもの」の存在を認めるのみならず、それを絶対視するとすれば、いろいろな難儀な問題が生じることになろう。