いやはや驚いた。シェーンベルク晩年の生徒にして、彼についての研究書も著しているディカ・ニューリン(1923-2006)がまさかこんなことをしていたとは……:https://www.youtube.com/watch?v=79JDD5gHR1k。なんともcoolではないか。やはりシェーンベルクの生徒だった(こともある)ジョン・ケィジ同様、ニューリンのこの「尖った」ところは師匠に負けてはいない。
2025年3月11日火曜日
2025年3月10日月曜日
ライナー・リーン
ドイツ・グラモフォンの「アヴァンギャルド」シリーズ(21枚組)中のジョン・ケィジの音楽を収めたCDを再聴した。演奏はライナー・リーン(1941-2004)指揮のアンサンブル・ムジカ・ネガティヴァ。
このコンビは(今は亡き)EMIからもケージ作品集を出しており、私は昔々こちらの方を愛聴していた(当時はLP。ただし、すでに廃盤だったので中村(金澤)攝さんから借りてカセット・テープにコピーした。その後、このディスクがCD化された際には購い、今でも時折楽しんでいる)。
「ムジカ・ネガティヴァ」という名前はいかにも60年代後半に若者だった人がつけそうな名前である(「これはアドルノに由来するものだろうなあ」と思っていたら、やはりそうだった:https://www.deutschlandfunkkultur.de/das-ensemble-musica-negativa-music-before-revolution-100.html)。そして、そこで取り上げられた音楽もまた、既存の芸術音楽を「否定」するものだった。
だが、「否定」はいつまでも続けられるものではない(とはいえ、このアンサンブルの最後の演奏は1992年だとのこと)。その後リーンは有名なMusik-Konzepte叢書を創刊して編集者となり、さらにはフランクフルト(アドルノの生地!)歌劇場の顧問も務めている(https://www.mqw.at/institutionen/kulturmieterinnen/artists-in-residence/2010/rainer-riehn)。もちろん、それらの活動の中にも「否定」の精神は生きていたことだろう。20世紀後半の芸術音楽史の登場人物の1人してなかなかに興味深い存在である。
2025年3月9日日曜日
石川健人《Addictive Circuit for Orchestra》を楽しく聴く
今日、NHK-FM「現代の音楽」で放送された石川健人《Addictive Circuit for Orchestra》はなかなかに楽しい作品だった。それは聴いている最中だけのことではなく、その後にも余韻が残り、「ああ、もう一度聴いてみたいな」と思わせるものだったのである。
放送では《メルティングポットを超えて Ⅱ》という作品も取り上げられたが、これは時間の都合により途中でカットされた。「残念!」と思っていたら、YouTubeに音源があるではないか(https://www.youtube.com/watch?v=12TsPx4nhag)。というわけで聴き直してみたが、やはり面白い。この作曲者はまだまだ若い人なので今後が大いに楽しみだ。
同じくFMの「名演奏ライブラリー」も聴いていたところ、マルチヌーのヴァイオリン・ソナタ第3番に強く惹かれた(今日聴いた演奏とは異なるが、楽譜付きのものをあげておこう:https://www.youtube.com/watch?v=At6IGdHQbZE)。プロコフィエフより1歳年上のこの作曲家のことは嫌いではなかったものの、積極的に聴いてきたわけではない。が、今日、たまたま聴いたこのソナタには驚いた。「こんな面白い作品を書く人だったのか!」と。ということはつまり、これまでこの人の作品をきちんと聴いていなかったか、もしくは自分の聴き方が変わったかdのいずれかであろう。ともあれ、これからもっとマルチヌーの音楽を知りたいと思った。
2025年3月8日土曜日
もちろんラフマニノフは「十九世紀ロマン派の音楽家」などではない
かつて音楽史におけるラフマニノフの扱いは酷いものだった。たとえば、次のように――「まったく、十九世紀ロマン派の音楽家だ。そうして、ピアノ協奏曲にしても、チャイコフスキーの後塵を拝しているにすぎない」(『吉田秀和全集・第7巻』、197頁。なお、この一節は1961年に刊行された『私の音楽室』中のもの。それゆえ、その後、同書の著者が考えを改めている可能性はあろうが、その点は未確認。あくまでもかつてこういう意見があったということを示すためにのみ引用した)。だが、今やこんな馬鹿げたことを言う人はいないだろう。ラフマニノフは(19世紀のものを多く受け継ぎ、創作に活かしていることは間違いなにいしても)れっきとした20世紀の作曲家であり、彼の作品には独自性がしかと刻印されているのだから。
先の引用でチャイコフスキーの名が出てきたが、その有名なピアノ協奏曲第1番とラフマニノフの第2番を比べてみれば、後者が決して「後塵を拝しているにすぎない」わけではないことはいろいろな面から容易に見て取れる。たとえば、第1楽章主要主題が弦楽器によって奏でられるときのピアノの音形。チャイコフスキーなどの19世紀の作曲家ならば、こうした場面ではもっと規則的ですっきりした書き方をするものだが、ラフマニノフはそうはしてしない(次の動画の楽譜を参照:https://www.youtube.com/watch?v=3x0SSK_UWxU)。それはかなり複雑な動きをしており、独特の「うねり」を生み出している(このくねくねした曲線を見て、同時代の美術のユーゲント・シュティールやアール・ヌーヴォーを思い浮かべるのは私だけではあるまい)。この箇所以降にも「十九世紀ロマン派の音楽家」の流儀とは異なるもの、そして、もっとのちの時期のいっそうモダンな作風に繋がる要素がいろいろと見つかるはずだ。
2025年3月7日金曜日
メモ(142)
「本当に日本にオペラを根付かせたいのなら、圧倒的にすばらしいインパクトのある、日本語による、日本の現代オペラ作品の存在が必要なのではないか」というのは正論ではあろう(大友直人『クラシックへの挑戦状』、中央公論新社、2020年、83頁)。しかもそうしたオペラが「目の前の聴衆が喜んでくれるか、感動してくれるかを大事にする」(同、86頁)ものでなければならないという点にも大いに頷ける。
だが、それはそれとして、日本語のテキストによるオペラではなく、それとは異なる、もっと日本語や日本語的演奏の現実に即した音楽劇というものがあってもよいのではないだろうか? 母語であるにもかからわず字幕を必要とするようなものではなく、すっと言葉と音楽が耳に入ってきて、自然にドラマに引き込んでくれるような作曲様式と歌唱様式による音楽劇が。
2025年3月6日木曜日
ショパンの新発見のワルツ
昨年、つまり2024年にショパンのワルツが新たに発見されたそうだが、このことを遅ればせながら今日知った(https://www.youtube.com/watch?v=R5EGPlzQ4MA)。そのうち楽譜も出版されるのだろう。そして、ポーランド・ナショナル・エディションなどにもいずれこの曲(https://www.youtube.com/watch?v=XShSRvHw-ek)が加えられることになるのだろうか(真作であるとの判断が覆されない限りは)。
もっとも、作曲者が生前に出版しなかったのにはそれなりの理由があるはずで、そうした作品まで掘り出してきては期日の下にさらすというのは作曲者に対して些か気の毒だと思わないでもない。
たぶん、これからしばらくの間、この曲はアンコール・ピースとして人気を博することだろう。
2025年3月5日水曜日
好きな演奏解釈ではないものの
今朝のNHK-FMでたまたまジャン=マルク・ルイサダ(1958-)が弾くリストのソナタを聴いた。日頃全く聴かないピアニストだけに、どう弾くかに好奇心があったのだ。嫌になったら途中でやめるつもりだったが、最後までそうはならなかった。つまり、彼の演奏は私の注意を引き続けたのである。
とはいえ、私はルイサダの解釈に賛同するわけではない。むしろ、随所で「なぜ、ここでこう弾くかなあ」と思わされ、もやもやした気分になった(もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎない)。にもかかわらず、「ああ、こんな解釈もあるのだなあ」と素直に思いもする。とともに、そんな私に最後まで聴かせてしまうこのピアニストの力量に感嘆させられもした。それゆえ、またいつかたまたまルイサダの演奏を聴ける機会があればいいなあと思う。
先日、やはりラジオでたまたま権代敦彦(1965-)のピアノ曲《無常の鐘》(別の音源:https://www.youtube.com/watch?v=PIdCW9ci7Qs)を聴いた。以前何曲かこの作曲家の曲を聴いた際によい印象を受けなかったので、その後全く聴かずに過ごしてきたのだが、このときはなかなか面白く感じた。自分の聴き方が何かしら変わったからだろうか。ともあれ、これはうれしい驚きである。
このように以前は嫌いだったり苦手だったりしたものが平気になることもあれば、逆に大好きだったものに嫌気がさすようになることもあろう。が、いずれにせよ、その時々の自分の感じ方を大切にしたい。そして、できれば、前者の変化が多くありますように。
2025年3月4日火曜日
ブラームスの「間奏曲」は何の「間」に収まるものなのか?
ブラームスの一連のピアノ小品には「間奏曲」と題された曲が少なからずある。が、「前奏曲」は1つもない。これは彼の音楽の性格をある一面で示していることかもしれない。
「間奏曲」という曲名からすれば、それは何か他のものの「間」に奏でられるものだということになるのだろうが、ブラームスの小品集はいきなり「間奏曲」から始まるものや、「間奏曲」しかないものもある。すると、彼の「間奏曲」は必ずしも音楽に対するものではなく、他の何かの「間」に収まるものなのかもしれない。
スクリャービンの後期ソナタを「塗り絵」していると、その音組織のありよう(この時期、彼は「8音音階」を重要に駆使している)がかなりよく「見える」ようになる。
2025年3月3日月曜日
聴けばすぐにわかることを……
名作曲家の作品を聴けば、すぐに「ああ、いかにもこの人の音楽だな」ということがわかる「印」がある。今朝もラジオをつけると耳に飛び込んできた音楽に対して、「もしかして、これはシベリウスでは?」とすぐ(1、2秒ほどの間)に思ったが、果たしてそうだった(ちなみに、最後まで聴いてわかったことだが、その作品は第3交響曲だった。私はシベリウスが大好きなのだが、7つの交響曲のうちもっともなじみが薄く、全く頭に入っていなかったのがこの第3だ)。つまり、その瞬時の音にシベリウスならではの何かが刻印されていたことになる。そして、耳はそれをとらえることができたわけだ(これはある程度その作曲家の作風に馴染んでいる人ならば普通にあることだろう)
さて、その「聴けばすぐにわかる」ことを言葉で説明しようとすると、これがなかなかにたいへんだ。先の例でいえば、1、2秒ほどの音楽から「シベリウスらしさ」を説明しようとしても無理だろう。そうした説明のためには、もっと長い部分を取り出し、しかも、他の作品をも引き合いに出さないわけにはいくまい。そして、そうしていくら多言を費やしたとしても、耳で聴き取った「(特定の)作曲家らしさ」をうまく説明できるとは限らないのだ。
というわけで、音楽という(表現)媒体の「不思議さ」に改めて目(耳)が開かれる思いがした次第。
2025年3月2日日曜日
主役はヴァイオリンではなくピアノ?
昨日話題にしたフランクのヴァイオリン・ソナタについて、往年の名ヴァイオリニスト、ナタン・ミルシテイン(1904-92 )は興味深いことを述べている。曰く、
原理的にピアノはヴァイオリンと相性が合わない[……]。結局、言ってみれば、ピアノは打楽器なのだ、そのため、たとえピアノとヴァイオリンのための最高の作品であっても、実際に音を出してみると、どこか不自然に響く。有名なフランクのソナタの第二楽章では、ピアノはヴァイオリンをかき消すほど多くの音を弾く。そしてピアニストがよりソフトに弾こうとすると、曲に必要なエネルギーが失われてしまう。[……]ピアノのためというよりむしろヴァイオリンのために書かれたと言えるのは[……]緩徐楽章だけである(ナタン・ミルスタイン&ソロモン・ヴォルコフ(青村茂&上田京・訳)『ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録』、春秋社、2000年、80頁)
ミルシテインはフランクのソナタが悪い曲だなどとは言っていない。ただ、彼の見るところ、そこでの主役はどちらかっといえばピアノだというわけだ(なお、この曲の正式名称は「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」である)。
昔、はじめて上の一節を読んだとき、このソナタに対して抱いていた「もやもや」――「なるほど名曲ではあるが、どこかバランスが悪いなあ」という感じ――の理由がわかった(そして、なかなかよい演奏に出会えない理由も)。が、そのことでこの名曲への愛が失われたわけではない。
ちなみに、上記の回想録は無類に面白い本であり、ヴァイオリン音楽ファンのみならず、音楽の演奏というものについて考える上でもいろいろな材料を提供してくれる。未読の方には一読をお勧めしたい(残念ながらもはや品切れだが、図書館で探せば見つかるだろう)。
2025年3月1日土曜日
「名曲」の塩漬け
いくらおいしい食べ物であっても、あまりに頻繁に口にしていれば、飽きて嫌にもなるというもの。「名曲」もまた然り。それゆえ、そのような場合、私はいかに名曲であっても徹底して遠ざけることにしている。いわば「塩漬け」にするわけだ。そして、長い時間を経てそれを取り出してみると、飽きた「名曲」も自分にとっての鮮度を取り戻しているのだ。
そうした「名曲」のうちで、このところ感動を新たにしているのが、フランクのヴァイオリン・ソナタである。同じ作曲者の作品でも交響曲その他はつかず離れずで楽しんできたのだが、このソナタだけはとことん嫌になった時期があったのだ。が、今、楽譜を引っ張り出してきてピアノで音を拾ったり、あれこれ録音を聴いたりしてみると、改めてそのすばらしさに胸を打たれる。のみならず、以前には感じられなかった美点があれこれ見つかるではないか。まことに喜ばしいことである。
そのフランクのソナタと同じ調性で書かれたフランスのヴァイオリン・ソナタの名曲といえば、フォレの第1番だ。この「名曲」からも私はしばらく遠ざかっているが、こちらはフランクほどには嫌気がさしていなかったものの、久しぶりに触れてみれば感動を新たにすることができるに違いない。そのためにはまず、行方不明の楽譜を見つけ出さなければ……。