2025年3月30日日曜日

今日のNHK-FM「現代の音楽」は

  NHK-FM「現代の音楽」は2024年度に亡くなった人特集だった(ところで、私はこの番組のオープニング曲――スティーヴ・ライヒのもの――が大嫌いで、別なものに替えて欲しいと思っている)。そのほとんどが長命で仕事を十分にやり尽くした人たちだったが、1人だけ(今日の平均余命からすれば)若い人がいた。それは作曲家・ピアニストの藤井一興。氏は19551月生まれで今年の1月に亡くなったというから、その時点で70歳だったことになる。まだまだやり残した仕事があったに違いない。私も一度は氏の実演を聴いてみたかった。

 

 ここ12日、持ち物の整理整頓をしていた。局所的に混沌状態を呈していたので、すっきりさせたかったのである。自分ももはや若くはなく、長期ではなく短期で物事の計画を立てて処理すべき年齢だ(来年で60)。急に長年の生活様式を変えるのは難しいにしても、ここ数年のうちにいろいろな意味でいずれ来るはずの時に備えておかねばなるまい。

 

(なお、当分の間、このブログの更新を以前のように散発的なものに戻します)

2025年3月29日土曜日

シューベルトとクルターグ――現実と非現実の交錯――

  昨晩、ラジオをつけると耳に飛び込んできたのはシューベルトの舞曲。なかなか感じの良い演奏だったので聴き続けると、俄に調子が変わり、現代音楽になった。だが、しばらくすると再びシューベルトに戻り、さらにまたもや現代音楽に。これはなかなか面白い趣向だ。

そこで番組表を調べてみると、演奏はピエール=ロラン・エマールで、「現代音楽」はクルターグ・ジェルジ(1926-。今年99歳!)のものだった。エマールが選んだのはシューベルトの舞曲と相性のよさそうな小曲であり、両者が交互に奏でられると、一方が他方への註釈のように聞こえてくる。そして、いずれの作曲家の音楽でも現実と非現実が交錯しているかのような何とも不思議な感覚がもたらされた。いや、この選曲は実にすばらしい。

エマールというピアニストは一流ではあるが、個人的にはあまり好みではなかった(ただし、嫌いだというわけでもない)。が、このときの演奏には大いに心惹かれた。これをその場でじかに聴いた人は至福のひとときを味わったことだろう(なお、このリサイタルの録音はNHKの聴き逃し配信で1週間聴けるので、是非、お試しあれ。私も最初からきちんと聴き直すつもりだ)

ところで、調べてみると、エマールはシューベルトの舞曲だけでCD1枚つくっていたが、いかに演奏がすばらしくとも、舞曲ばかりをずっと聴き続けるのはさすがに辛い。が、彼がこの演奏会のようにクルターグ作品を合間に挟むかたちで録音してくれれば、私は迷うことなくそのCDを購いたい。

2025年3月28日金曜日

吹奏楽たえてコンペのなかりせば夏の心はのどけからまし?

 この記事には驚いた:https://news.yahoo.co.jp/articles/77833261c518023fcd3734a7eeb576f6694d9d0eが、こんなことがあっても不思議はないとも思う。この国では分野を問わずこうしたことが起こってしまうのは、やはり国民性というものなのだろうか。とはいえ、それをそのまま放置しておいてよいわけがない。

 吹奏楽の場合、やはりコンクールの存在がこうした悲劇を招きよせているのだろう。そこで行われている音楽の中身についての評価はさておき、音楽家を目指しているわけでもない生徒がコンクールのために他の多くの事柄を犠牲にするようなことがあってよいわけがない。それゆえ、私などは「吹奏楽たえてコンペのなかりせば夏の心はのどけからまし」(「コンクール」では字数が多すぎるので類義語の「コンペ」とした。ちなみに、「夏」はコンクールの開催時期)ではないかと思ってしまう。コンクールなどなくても音楽は楽しめる、いや、むしろない方が楽しめるはずだから。そして、その方が教員、生徒ともにハッピーになれるのではなかろうか。

2025年3月27日木曜日

異次元の音楽

  米国のピアニスト、ジェレミー・デンク(1970-)が奏でるリゲティとベートーヴェンのCDを久しぶりに聴く(Nonsuchレィベル。もはや生産中止)。これは前者のエチュード2巻の間に後者の第32番のソナタを挟んだもので、いずれもなかなかに素敵な演奏だ。

 そのベートーヴェンを聴きながら、第2楽章(https://www.youtube.com/watch?v=hViZ5mmczuU)について、改めて何とも不思議な音楽だと感じた。とりわけ、第74小節以降(上記のリンク先で8’25”から)は作曲当時の聴き手にとってこれは異次元の音楽だったろうし、現在の聴き手にとってさえそうだろう。ベートーヴェンの音楽といえば、何よりもその「構築性」が高く評価されているが、この楽章の魅力はそれだけでは到底とらえられまい。

 ベートーヴェンがこのような音楽を生み出し得たのは、1つには難聴が与っているかもしれない。すなわち、耳がよく聞こえないからこそ、頭の中で鳴り響く音は現実の諸々の事情に縛られることなく自由さを増し、かような不思議な音の世界が形成され得たのではなかろうか。

 ともあれ、この摩訶不思議な音楽を聴くたびに、自分も現実世界を離脱させられ、異次元世界に引き込まれてしまう。もちろん、それはよい演奏で聴くときに限られるが、デンクの演奏はまさにそうした演奏の1つだ。

2025年3月26日水曜日

公共の場における音の取扱い

  このところ世の一部を賑わしている「ストリート・ピアノ」問題だが、今回の件だけで終わらせず、公共の場における音の取扱いについて議論がもっと広がり、深まればよいと思う。商業施設で垂れ流されるBGM、アナウンス、そして、もちろん選挙カーによる候補者名の連呼など、この国の音環境については考えてみるべき問題は多い。

 小・中学校の「音楽科」でもこうした問題を扱うべきだろう。その際、何か1つの答えを押しつけるのではなく、身近なところにある問題の所在を確認し、児童・生徒がそれについて考え、議論できる機会であることが肝要だ。そして、それはたとえばベートーヴェンの「運命」交響曲や伝統邦楽を表面的にのみ学ばせることよりも格段に重要なことだと私は思う。

2025年3月25日火曜日

自然の音風景

  裏庭から鶯の声が聞こえてくるようになった。のみならず、他にもいろいろな鳥が賑やかにさえずっている。中にはまるで嘲り笑いのように鳴く鳥も。そして、風が吹けば木々のざわめきが起こり、耳をくすぐる。とにかく、まことに好ましい音風景が現出している。

 それは人の手になる「つくりもの」ではないので、「それがどうできているか」などは当然気にならず、その都度自分の注意を惹く音に耳を傾け、味わい、楽しむことができる。これが「音楽作品」だとそうはいかない。音楽の「何が」「どのように」なっているかを確認しつつ聴く習慣が身についているからだ。もちろん、これはこれで有意義なことではあるが、そればかりでは疲れてしまう(これは何も音楽だけに限ったことではない。人の話を聞くことについても同じことが言えよう)。それゆえ、そうした縛りから心身を解放してくれる自然の音風景の存在はまことにありがたいものだと感じる次第。

2025年3月24日月曜日

ある日の戯れ

  まず、ピアノの鍵盤を適当に音を出さずに押さえ、ソステヌート・ペダルを踏む。それから、やはりまずは適当な音をいくつか弾く。すると、ペダルで保持された音だけが残り、その倍音上にある音も共鳴する。そこで、その具合を探りつつ、弾く音を選び、響きの差異を味わいながら、鍵盤の上で音の戯れを続ける。そして、それに飽きてきたら、保持する音をリセットし、同じ要領で弾き続ける――先日、このようにして遊んでみたが、これが実に楽しかった。

そのとき、音数は少なくした。1つ弾いた音の行方にじっと耳を澄ませて聞き入り、それに対する反応として次の音をおもむろに弾く。先行する音に対して、どんな音を選び、どのタイミング、どの強さやタッチで弾くかをそのつど瞬間的に決め、「行方も知らぬ」音の「道」を進んでいった。すると、次第に感覚が研ぎ澄まされていく一方、不思議な爽快感がわき起こってくる。

このピアノによる「瞑想曲」は弾く本人にとってはこの上なく楽しいものだが、到底人様には聞かせられない。それゆえ、家族の留守中にこっそりと……。


2025年3月23日日曜日

メモ(144)

  12音技法(セリー技法)、数学を用いたクセナキスの流儀、ケージの偶然性の技法など、「現代音楽」の時代に案出された種々の技法は、作曲者の音楽性、センスの良し悪しをはっきり露呈させる。それに比べれば、調性音楽における「エクリチュール」はさほど才能がない者にもそこそこのものを書かせてしまう。後者が長い歴史の中で積み重ねてきたものを思えば、当然といえば当然のことであるが。

 

 昨日話題にした高橋悠治の《クロマモルフⅡ》 は師クセナキスの《ヘルマ》よりも格段に面白い作品だと私には感じられる。が、後者を弾く人は少なからずいても、前者はそうではない。これを実演で聴ける日がくればいいなあと思う。

2025年3月22日土曜日

これも楽しみ

  杉山洋一(企画・指揮)の高橋悠治作品集第2集が出るとのこと(https://www.hmv.co.jp/artist_%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%82%A0%E6%B2%BB%EF%BC%881938-%EF%BC%89_000000000012046/item_%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AB%EF%BC%8F%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8E%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%80%9C%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-%E6%9D%89%E5%B1%B1%E6%B4%8B%E4%B8%80%EF%BC%86%E8%AA%AD%E5%A3%B2%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3%E3%80%81%E6%9C%AC%E6%A2%9D%E7%A7%80%E6%85%88%E9%83%8E%E3%80%81%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%84%EF%BC%882CD%EF%BC%89_15781854)。第1集を楽しく聴けたので、こちらもいずれ聴いてみたい。

 第2集に収められる《オルフィカ》をこれまで私は岩城宏之指揮、NHK交響楽団の録音で聴いてきたが、それと今回の新録音(演奏自体は5年前のもの)の違いに大いに興味が持たれるところだ。前者の演奏は「現代音楽」全盛期のものであり、後者はそうした時代がもはや歴史の一齣となってからのもの。どちらにも一長一短あろうが、聴き比べればいろいろと発見があることだろう。

 それにしても、私が《オルフィカ》をLPで聴いていた頃はこの曲が生まれてからまだ十数年しか経っていなかったが、それから何と40年以上の時が過ぎた。その間に「現代音楽」はものの見事に没落してしまった。 だからこそ、私は(あくまでも)昔の「現代音楽」を普通のクラシック音楽と同様に心穏やかに楽しめるのかもしれない。同時代の作品ではほとんど感動を味わえない寂しさを覚えつつも。

2025年3月21日金曜日

これは楽しみ

  2025年度のいずみホール(大阪)の主催公演一覧を見たとき、もっとも心惹かれたのは次のものだ:https://www.izumihall.jp/schedule/20250830 。まさに今、自分が関心を深めている文楽の演目が観られ(聴け)、それに山根亜季子の新作が聴けるのだから。これは今から楽しみでならない。

2025年3月20日木曜日

耳で(も)味わえる文章

  私は放送劇は好きだが、朗読番組はほとんど聴かない。が、先日、音楽番組を聴いたのちもそのままラジオを消さずにいると、そのうち何かの朗読が聞こえてきた。はじめのうちは聞くとはなしに聞いていたのだが、次第に耳が惹きつけられていく。結局、最後まで聴いてしまったのだが、それは須賀敦子(1929-98)の『ミラノ 霧の風景』の一節で、「朗読の世界」という番組でのことだった。須賀の著書は以前から読みたいと思っていたのだが、ずっと「積ん読」のままだったので、これをきっかけに今度こそ読もうと思う。

そう思えたのは、もちろん、文章の内容に惹かれたからだが、決してそれだけではない。音として聞こえてきた文の「調子」にも魅せられたからでもある。いや、むしろ、こちらの方が理由としては大きいかもしれない(それには朗読者が巧みだったということと、その声の響きの好ましさも少なからず与っているが)。つまりは須賀のこのエッセイは「耳で(も)味わえる」文章だったわけだ。そして、それは(こう言うと笑われるかもしれないが)私にとっての理想である。そして、いつかそれを実践するようなものを書いてみたいものだ。


2025年3月19日水曜日

もはや「全集」が出る時代ではない……のかも

  シェーンベルクの楽曲については全集が刊行されているし、著作についても現在進行中である。ストラヴィンスキーについてはそうしたものはまだないが、いずれ出るであろうことは想像に難くない。シェーンベルクの弟子のうちで一番人気のあるベルクも全集がまとめられている最中だし、アイスラーのようなかなりマイナーな人でさえそうだ(ヴェーバーンの全集はどうなるのだろうか?)。その他にも20世紀前半に名を成した作曲家についてはきちんと校訂された「全集」なり、まとまった「作品集」なりがいろいろ刊行されている。

 では、20世紀後半の作曲家についてはどうなるだろうか? たぶん、ほとんどの作曲家について「全集」は出ないのではなかろうか。1つにはますます逼迫しつつある楽譜出版事情や研究資金調達の難しさのゆえに。そして、もう1つには、「全集」を出すに値すると多くの人が認める作曲家が(おそらく)いないがゆえに。もしかしたら、何人かの作曲家については国威発揚のために採算度外視で「全集」がつくられるかもしれないが(たとえば、ポーランドのルトスワフスキやハンガリーのリゲティなど)、たぶん、そのような作曲家は十指に満たないだろう。

 もっとも、そもそも個人の「全集」をまとめるということ自体の賞味期限がもはや切れているのかもしれないが。

 

2025年3月18日火曜日

私小説に非ず

  八村義夫の作品には一見(一聴)「私小説」のような趣が感じられる。その剣呑な響きが破滅型で短命だったのこの作曲家の生き方にどこか重なって見える(聞こえる)からだろうか。

 だが、八村が作品で描き出そうとしたのは己自身のことなどではなく、己が理想とするヴィジョンであったろう。音楽の響きだけではなく、まさにこの点でも彼はスクリャービンの影響を強く受けているのだと言えよう。

 私が八村やスクリャービンを好んで聴くのは、その「ヴィジョン」に共感するからというよりも、むしろそれが自分には手の届かない別世界のものに感じられるからかもしれない。 


2025年3月17日月曜日

メモ(143)

  言葉で虚構を語ることができる。絵でも実在しないものを描くことはできる。では、音楽に虚構を生み出すことができるだろうか。

 たとえば、「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第33番」(つまり、実際には書かれていない作品)とか、「ヴァントゥイユのヴァイオリン・ソナタ」(小説の登場人物の作品)とかいったものは、あるいは「架空の民族の音楽」などは虚構である。いずれも何か具体的な設定(物語)の上に成立するものだ。

 では、そうしたものとは異なる虚構についてはどうだろうか。果たしてそのようなものが可能だろうか。もし、そうだとすれば、それはどんなものだろうか。

2025年3月16日日曜日

寺山修司の魔力

  寺山修司の自伝的エッセイ「誰か故郷を想わざる」を久しぶりに読んでいる。このエッセイはかつて私を寺山ワールドに引き込んだものなのだが、今読んでもその魅力、いや、魔力は微塵も失われていない。

 「自伝」とはいえ、このエッセイは虚実が入り混じった、いや、精確に言えば、両者の境界が曖昧な記述に満ちている(もちろん、これを寺山は意識的に行っている)。いかにもホラっぽい話の中に真実が述べられているかもしれず、逆にいかにも本当のことを述べているように見える文章の中に嘘が混じっているかもしれないのだ。そして、本当のところは読者にはわからないから、何度読んでも新鮮さが失われない。ただ、残念ながら、手持ちのものは抄文なので、近いうちに全文を読んでみたいものだ。

 ところで、「自伝」に虚実が入り混じるのは何も寺山に限ったことではない。どんな自伝であれ、虚構が入り込まないわけにはいかないだろう(ただし、その多くは寺山の場合とは異なり、無意識になされていることである)。だから、それを「本人が言っているのだから本当だ」と決めてかかるのは頗る危険である。その点、寺山の自伝(的エッセイ)にはその心配はない。それは「すべてを真実」だと解するような読み方を拒み、虚実の入り乱れを楽しんで読むことに誘うものだから。が、実のところ、そうした「楽しむ」読み方は普通の自伝全般に対しても適用すべきものなのかもしれない。

 

2025年3月15日土曜日

頭の中で補正されていた楽譜の誤記

  今日、バッハのパルティータ第4番の〈序曲〉を某社の楽譜を見て弾いているとき、誤記を見つけた。今まで何度となく見てきたはずなのに見落としていたものである。なぜ、気づかなかったかといえば、これまで頭の中で正しい音に補正して読んでいたからだろう。だが、同じ曲には別の箇所にも誤記があり、こちらには早々に気がついている。すると、いったい何が両者に対する気づきの違いを生んだのだろうか?  たぶん、前者の方が「誤り」の程度が視覚的に小さかったからではなかろうか。

 

 NHKの「みんなのうた」で《校長センセ宇宙人説》という曲を聴く。いや、これは面白い:https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN202502_03/

2025年3月14日金曜日

「歌い方」の違い

  次にあげるのはリストの《愛の夢》第3番をドイツ人ピアニストが弾いたもの:https://www.youtube.com/watch?v=BByu4FojkHw

 この同じ曲を国際的に活躍する日本人ピアニストの演奏で聴いてみよう:https://www.youtube.com/watch?v=r5hZEtB7qdg

 さて、この2人のピアニストの演奏を聴き比べて、前者を好むという人もいれば、後者がよいと感じる人もいるだろう。それは聴き手の好みの問題であり、どちらか一方の演奏が絶対的に良いということも悪いということもない。どちらもそれぞれに立派な演奏である。

 ところで、この有名なピアノ曲の原曲は同じ作曲者の歌曲《おお、愛せるかぎり愛せよ!》である:https://www.youtube.com/watch?v=h8AFIoD9raM。これを何度か歌の強弱リズムとイントネーションに注意しながら繰り返し聴いた上で、もう一度上の2つのピアノ演奏を聴く比べていただきたい。すると、両者のピアノでの「歌い方」――2人めの流儀は多くの日本人ピアニストが共有しているもの、つまり、「日本語のリズム」に基づくもの――の違いが聞こえてくるはずだ(繰り返すが、その「違い」は演奏の良し悪しとは別次元の問題である)。

 

2025年3月13日木曜日

ラフマニノフにとってのニ短調

  万人に共通して感知される「調性格」というものはないにしても、1人の作曲家の中には(自覚の有無はさておき)あるかもしれない。すなわち、ある作曲家の作品全体を見渡したとき、特定の調よる作品に何か共通した性格が見られる、ということだ。

 この点で今日、ふと気になったのがラフマニノフ。彼の交響曲とピアノ・ソナタの第1番はともにニ短調である。また、ピアノ協奏曲の中でもっとも力が入っている第3番もまた。そして、米国に亡命後に書かれた唯一のピアノ独奏曲たる《コレッリの主題による変奏曲》も。すると、「ラフマニノフとってニ短調という調は何か特別の意味を持っているのかも」と考えたくなるところだ。

2025年3月12日水曜日

教育者としても偉大なシェーンベルク

  音楽理論の実習書では説明の中で「間違い」の例があげられてはいるものの、それはさほど多くはない。そして、課題の解答例がある場合、正解としてたいていは1つしか例があげられていない。

 なるほど、教師の下で学ぶ者にとってはそれで十分かもしれない。必要な補足説明は直接教師から得られるのだから。が、独習者はそういうわけにはいかないので、たいていの理論実習書は「痒いところに手が届かない」。

あくまでも私の知る限りのことだが、その例外的存在がシェーンベルクの対位法教本だ。そこでは2声対位法に限ってだが、1つの定旋律に対して「間違い」も含めていくつもの解答例が示されており、その訂正の仕方も含めて丁寧な設営がつけられている(ケクランの対位法教本(これも名著!)も1つの課題に複数の解答例が示されており、説明も詳しいが、「間違い」を含む解答例はあげられていない)。

もちろん、シェーンベルクは独習者向けにそうした教本を書いたのではなく、自分の授業内容を文書化したのだろう。が、だとすれば、彼がまことに懇切丁寧な教え方をしていたということがそこからわかる。つまりは、彼は作曲家としてのみならず、本格的な修業をする弟子に対してはもちろん、初級者に対する教育者としてさえも偉大だったわけだ。

2025年3月11日火曜日

シェーンベルク晩年の生徒がこんなことをしていたとは……

  いやはや驚いた。シェーンベルク晩年の生徒にして、彼についての研究書も著しているディカ・ニューリン(1923-2006)がまさかこんなことをしていたとは……:https://www.youtube.com/watch?v=79JDD5gHR1k。なんともcoolではないか。やはりシェーンベルクの生徒だった(こともある)ジョン・ケィジ同様、ニューリンのこの「尖った」ところは師匠に負けてはいない。

2025年3月10日月曜日

ライナー・リーン

  ドイツ・グラモフォンの「アヴァンギャルド」シリーズ(21枚組)中のジョン・ケィジの音楽を収めたCDを再聴した。演奏はライナー・リーン(1941-2004)指揮のアンサンブル・ムジカ・ネガティヴァ

このコンビは(今は亡き)EMIからもケージ作品集を出しており、私は昔々こちらの方を愛聴していた(当時はLP。ただし、すでに廃盤だったので中村(金澤)攝さんから借りてカセット・テープにコピーした。その後、このディスクがCD化された際には購い、今でも時折楽しんでいる)。

「ムジカ・ネガティヴァ」という名前はいかにも60年代後半に若者だった人がつけそうな名前である(「これはアドルノに由来するものだろうなあ」と思っていたら、やはりそうだった:https://www.deutschlandfunkkultur.de/das-ensemble-musica-negativa-music-before-revolution-100.html)。そして、そこで取り上げられた音楽もまた、既存の芸術音楽を「否定」するものだった。

だが、「否定」はいつまでも続けられるものではない(とはいえ、このアンサンブルの最後の演奏は1992年だとのこと)。その後リーンは有名なMusik-Konzepte叢書を創刊して編集者となり、さらにはフランクフルト(アドルノの生地!)歌劇場の顧問も務めている(https://www.mqw.at/institutionen/kulturmieterinnen/artists-in-residence/2010/rainer-riehn)。もちろん、それらの活動の中にも「否定」の精神は生きていたことだろう。20世紀後半の芸術音楽史の登場人物の1人してなかなかに興味深い存在である。

2025年3月9日日曜日

石川健人《Addictive Circuit for Orchestra》を楽しく聴く

  今日、NHK-FM「現代の音楽」で放送された石川健人《Addictive Circuit for  Orchestra》はなかなかに楽しい作品だった。それは聴いている最中だけのことではなく、その後にも余韻が残り、「ああ、もう一度聴いてみたいな」と思わせるものだったのである。

放送では《メルティングポットを超えて Ⅱ》という作品も取り上げられたが、これは時間の都合により途中でカットされた。「残念!」と思っていたら、YouTubeに音源があるではないか(https://www.youtube.com/watch?v=12TsPx4nhag)。というわけで聴き直してみたが、やはり面白い。この作曲者はまだまだ若い人なので今後が大いに楽しみだ。

 

 同じくFMの「名演奏ライブラリー」も聴いていたところ、マルチヌーのヴァイオリン・ソナタ第3番に強く惹かれた(今日聴いた演奏とは異なるが、楽譜付きのものをあげておこう:https://www.youtube.com/watch?v=At6IGdHQbZE)。プロコフィエフより1歳年上のこの作曲家のことは嫌いではなかったものの、積極的に聴いてきたわけではない。が、今日、たまたま聴いたこのソナタには驚いた。「こんな面白い作品を書く人だったのか!」と。ということはつまり、これまでこの人の作品をきちんと聴いていなかったか、もしくは自分の聴き方が変わったかdのいずれかであろう。ともあれ、これからもっとマルチヌーの音楽を知りたいと思った。

2025年3月8日土曜日

もちろんラフマニノフは「十九世紀ロマン派の音楽家」などではない

  かつて音楽史におけるラフマニノフの扱いは酷いものだった。たとえば、次のように――「まったく、十九世紀ロマン派の音楽家だ。そうして、ピアノ協奏曲にしても、チャイコフスキーの後塵を拝しているにすぎない」(『吉田秀和全集・第7巻』、197頁。なお、この一節は1961年に刊行された『私の音楽室』中のもの。それゆえ、その後、同書の著者が考えを改めている可能性はあろうが、その点は未確認。あくまでもかつてこういう意見があったということを示すためにのみ引用した)。だが、今やこんな馬鹿げたことを言う人はいないだろう。ラフマニノフは(19世紀のものを多く受け継ぎ、創作に活かしていることは間違いなにいしても)れっきとした20世紀の作曲家であり、彼の作品には独自性がしかと刻印されているのだから。

 先の引用でチャイコフスキーの名が出てきたが、その有名なピアノ協奏曲第1番とラフマニノフの第2番を比べてみれば、後者が決して「後塵を拝しているにすぎない」わけではないことはいろいろな面から容易に見て取れる。たとえば、第1楽章主要主題が弦楽器によって奏でられるときのピアノの音形。チャイコフスキーなどの19世紀の作曲家ならば、こうした場面ではもっと規則的ですっきりした書き方をするものだが、ラフマニノフはそうはしてしない(次の動画の楽譜を参照:https://www.youtube.com/watch?v=3x0SSK_UWxU)。それはかなり複雑な動きをしており、独特の「うねり」を生み出している(このくねくねした曲線を見て、同時代の美術のユーゲント・シュティールやアール・ヌーヴォーを思い浮かべるのは私だけではあるまい)。この箇所以降にも「十九世紀ロマン派の音楽家」の流儀とは異なるもの、そして、もっとのちの時期のいっそうモダンな作風に繋がる要素がいろいろと見つかるはずだ。

2025年3月7日金曜日

メモ(142)

  「本当に日本にオペラを根付かせたいのなら、圧倒的にすばらしいインパクトのある、日本語による、日本の現代オペラ作品の存在が必要なのではないか」というのは正論ではあろう(大友直人『クラシックへの挑戦状』、中央公論新社、2020年、83頁)。しかもそうしたオペラが「目の前の聴衆が喜んでくれるか、感動してくれるかを大事にする」(同、86頁)ものでなければならないという点にも大いに頷ける。

だが、それはそれとして、日本語のテキストによるオペラではなく、それとは異なる、もっと日本語や日本語的演奏の現実に即した音楽劇というものがあってもよいのではないだろうか? 母語であるにもかからわず字幕を必要とするようなものではなく、すっと言葉と音楽が耳に入ってきて、自然にドラマに引き込んでくれるような作曲様式と歌唱様式による音楽劇が。

 

2025年3月6日木曜日

ショパンの新発見のワルツ

  昨年、つまり2024年にショパンのワルツが新たに発見されたそうだが、このことを遅ればせながら今日知った(https://www.youtube.com/watch?v=R5EGPlzQ4MA)。そのうち楽譜も出版されるのだろう。そして、ポーランド・ナショナル・エディションなどにもいずれこの曲(https://www.youtube.com/watch?v=XShSRvHw-ek)が加えられることになるのだろうか(真作であるとの判断が覆されない限りは)。

 もっとも、作曲者が生前に出版しなかったのにはそれなりの理由があるはずで、そうした作品まで掘り出してきては期日の下にさらすというのは作曲者に対して些か気の毒だと思わないでもない。

 たぶん、これからしばらくの間、この曲はアンコール・ピースとして人気を博することだろう。

2025年3月5日水曜日

好きな演奏解釈ではないものの

   今朝のNHK-FMでたまたまジャン=マルク・ルイサダ(1958-)が弾くリストのソナタを聴いた。日頃全く聴かないピアニストだけに、どう弾くかに好奇心があったのだ。嫌になったら途中でやめるつもりだったが、最後までそうはならなかった。つまり、彼の演奏は私の注意を引き続けたのである。

 とはいえ、私はルイサダの解釈に賛同するわけではない。むしろ、随所で「なぜ、ここでこう弾くかなあ」と思わされ、もやもやした気分になった(もちろん、これはあくまでも私個人の感じ方にすぎない)。にもかかわらず、「ああ、こんな解釈もあるのだなあ」と素直に思いもする。とともに、そんな私に最後まで聴かせてしまうこのピアニストの力量に感嘆させられもした。それゆえ、またいつかたまたまルイサダの演奏を聴ける機会があればいいなあと思う。

 

 先日、やはりラジオでたまたま権代敦彦(1965-)のピアノ曲《無常の鐘》(別の音源:https://www.youtube.com/watch?v=PIdCW9ci7Qs)を聴いた。以前何曲かこの作曲家の曲を聴いた際によい印象を受けなかったので、その後全く聴かずに過ごしてきたのだが、このときはなかなか面白く感じた。自分の聴き方が何かしら変わったからだろうか。ともあれ、これはうれしい驚きである。

 このように以前は嫌いだったり苦手だったりしたものが平気になることもあれば、逆に大好きだったものに嫌気がさすようになることもあろう。が、いずれにせよ、その時々の自分の感じ方を大切にしたい。そして、できれば、前者の変化が多くありますように。

2025年3月4日火曜日

ブラームスの「間奏曲」は何の「間」に収まるものなのか?

  ブラームスの一連のピアノ小品には「間奏曲」と題された曲が少なからずある。が、「前奏曲」は1つもない。これは彼の音楽の性格をある一面で示していることかもしれない。

 「間奏曲」という曲名からすれば、それは何か他のものの「間」に奏でられるものだということになるのだろうが、ブラームスの小品集はいきなり「間奏曲」から始まるものや、「間奏曲」しかないものもある。すると、彼の「間奏曲」は必ずしも音楽に対するものではなく、他の何かの「間」に収まるものなのかもしれない。

 

 スクリャービンの後期ソナタを「塗り絵」していると、その音組織のありよう(この時期、彼は「8音音階」を重要に駆使している)がかなりよく「見える」ようになる。