寺山修司の自伝的エッセイ「誰か故郷を想わざる」を久しぶりに読んでいる。このエッセイはかつて私を寺山ワールドに引き込んだものなのだが、今読んでもその魅力、いや、魔力は微塵も失われていない。
「自伝」とはいえ、このエッセイは虚実が入り混じった、いや、精確に言えば、両者の境界が曖昧な記述に満ちている(もちろん、これを寺山は意識的に行っている)。いかにもホラっぽい話の中に真実が述べられているかもしれず、逆にいかにも本当のことを述べているように見える文章の中に嘘が混じっているかもしれないのだ。そして、本当のところは読者にはわからないから、何度読んでも新鮮さが失われない。ただ、残念ながら、手持ちのものは抄文なので、近いうちに全文を読んでみたいものだ。
ところで、「自伝」に虚実が入り混じるのは何も寺山に限ったことではない。どんな自伝であれ、虚構が入り込まないわけにはいかないだろう(ただし、その多くは寺山の場合とは異なり、無意識になされていることである)。だから、それを「本人が言っているのだから本当だ」と決めてかかるのは頗る危険である。その点、寺山の自伝(的エッセイ)にはその心配はない。それは「すべてを真実」だと解するような読み方を拒み、虚実の入り乱れを楽しんで読むことに誘うものだから。が、実のところ、そうした「楽しむ」読み方は普通の自伝全般に対しても適用すべきものなのかもしれない。