2020年5月1日金曜日

メモ(4)

 以前、ピアニストのランランのパフォーマンスを西洋音楽の「カンフー化」などと評した人がいる(うろ覚えなので出典を示すことができない)。明らかに肯定的な評価ではなく、そこにはどこか揶揄のニュアンスが含まれている。その文言を読んだときは「ふーん、面白い見方だなあ」と思った。自分もランランの演奏はあまり好きではなかったからだろうか(今でもどちらかといえば好きではないが、昔と違ってそれがたんに自分個人の価値観や好みの問題にすぎないのだと割り切って考えることができる。だから、場合よっては彼の演奏を楽しむこともできる)。
だが、今はそうした見方に違和感を覚える。「なぜ、日本人、つまり、西洋音楽を『外』から取り入れたという点では同じ者に、そんなどこか『上から目線』のような物言いができるのか?」と思わずにはいられないのだ。
日本が西洋音楽を取り入れてかなりの時が経ち、今やそれはたんなる借り物ではなく、日本の文化の一部と化している。が、その際に何かしら「日本化」されてしまった部分もあるはずだ(このとこはすでにこれまでに何人かが指摘している)。私たちは日本語の環境と(少なくともどこか西洋人とは違うところがあるという意味で)日本人的な思考様式の中で暮らしているのだから。
私は何もそうした「日本化」が悪いとか間違っていると言いたいのではない。が、本家本元の音楽のありようとは何かが違っているのは確かであり、それを冷静に見つめることから日本(のみならず、本家も含む世界各国)の西洋音楽にとって何か生産的な議論ができるのではないか、と考えている。