2020年5月24日日曜日

《イベリア》のパラレル・ワールド

   アルベニスの《イベリア》はかつては限られたピアニストしか取り上げないまことにマイナーかつ「ローカル」な作品だった。が、今やかなりの人気曲になっており(さもなくば、ドイツのHenle社から原典版が出されるはずもない)、昔では考えられないほど多くの録音がある。
演奏の流儀も多種多様で、それこそローカル色を濃密に打ち出したものから、逆にそうしたものをほとんど排したものまであって、いずれも面白い。こうしたことが可能なのも、作品に広がりと奥行きがあるからで、「底の浅い」作品ではこうはいくまい(私は多種多様な演奏の流儀の並存をSFの「パラレル・ワールド」に喩えたが(拙著『演奏行為論』を参照のこと)、すぐれた作品、広く演奏される作品ほど、まさにこの「パラレル・ワールド」を現出させる)。
好き嫌いとは別の次元で興味を起こさせるのがマルカンドレ・アムラン(1961-)の演奏だ。私は概して彼の演奏は好きではなく、《イベリア》の解釈も今のところよくわからない。が、少なくともアムランはアムランなりの考えがあってそのような演奏解釈をしているわけであり、しかもその完成度は高い。すると、「いったいアムランは《イベリア》に何を観て取っているのか?」ということと「こうした解釈を可能ならしめるものが《イベリア》のどこにあるのか?」ということが気になるのだ。というわけで、いずれきちんとアムランの《イベリア》を聞き込んでみたい。これも《イベリア》という作品の魅力のゆえだが、もしかしたら、これがアムランという音楽家を(好きになることはないかもしれないが)何かしら理解するきっかけになるかもしれない。
(「《イベリア》による演奏論」を早く再開したいと思っているのだが、なかなか……)

インターネットでの「匿名」言論は基本的には認めないようにすべきだと思う(「基本的に」と言うのは、ある種の「内部告発」のようなものは実名では行いにくいからだ)。「匿名」の下に無責任に何でも言いたい放題というのはやはりよくない。名前を隠さなければ言えないようなことは(正当な内部告発を除いては)言うべきではないのだ。