2020年5月14日木曜日

「接ぎ木」の限界

 小泉文夫・團伊玖磨『日本音楽の再発見』(平凡社ライブラリー、2001年。原版は講談社、1976年)を久しぶりに再読しているが、いろいろと時代の隔たりを感じさせられるところがありはするものの、今でも十分に刺激に満ちた名著だと思う。
その中の話題の1つに日本語の歌をベル・カントで歌うことへの批判がある。それから40年以上の時を経たわけだが、この問題についてはさほど進展を見ていないようだ。なぜそうなるのかといえば、西洋音楽の唱法を揺るぎない土台としてその中で何とか日本語の歌い方も処理する、いわば「接ぎ木」のようなことをしようとしているからだろう(大賀寛『美しい日本語を歌う――心を伝える日本語唱法』(カワイ出版、2003年)は実践に裏打ちされた名著ではあるが、同時に「接ぎ木」の限界をも示しているように思われる)。そして、その延長線上ではこの問題は永久に解決しないのではないか。
たぶん、日本語を歌うには、西洋音楽の外へ何かしら出る必要があろう。もちろん、それはたんに伝統邦楽を模倣すればよいというものではない。が、そこに学ぶべきは学びつつ、しかし、西洋音楽ともどこかで接点を持つような新たな歌唱スタイルが模索されてしかるべきだろう(その際、言語の「バイ・リンガル」のように歌い手は異なる音楽言語を駆使する必要があろうが、それは十分可能だと思う)。
それには歌手だけではなく、作曲家の力も必要になる。つまり、そうした新たな歌唱スタイルを実現するにふさわしい作品がなければならないからだ。いくら歌い方を工夫しても、作品がそれに応えてくれるものではなければ仕方があるまい。もっとも、作曲家もまたこれまで概ね「接ぎ木」式で日本語の歌を書いてきたわけで(もちろん、例外はあるがごく少数派であり、しかも、レパートリーとして定着していないようだ)、今やそれとは異なる別の書法が模索されてしかるべきだろう(日本歌曲に力を入れてきた作曲家の存在を私とて知らないわけではないが、彼らの作品を聴いても、やはり「何かが違う」とどうしても感じてしまうのだ)。そして、それは「ほとんど誰も聴かない」類の音楽をせっせと書き続けるよりも遙かにやりがいのあることではなかろうか。