すると、こう考えたくもなる。「どうせ聴き手にわからないのならば、少しくらいごまかしても問題なかろうに」と。もちろん、現代の誠実な演奏家はそんなことはしない。が、楽譜がそうした「ごまかし」の余地がある、もとい、細かいところは適当に演奏すればよいかたちで書かれていれば演奏家も随分楽になるだろう。
そこで、次のような書き方を考えてみる。すなわち、(1)聴き手にはっきりとわかる大きな音の動きについては音高もリズムもきちんと記譜し、これは正確に演奏してもらう (2)素早く細かい動きや複雑なポリフォニーでちょっとした違いが到底聴き手にはわからない箇所については、動きの傾向のみをおおざっぱに記譜し、音の選択は演奏者に任せる――というものだ。このように書いても、うまくやればすべて正確に記譜した作品と似た効果を生み出せるようなものもあるはずだ。これはいろいろと実験してみれば、面白いと思う。その結果、「これ以上細かく書いても無駄だ」という境界が見えてくれば、作曲家の蛮行・横暴を減らすことができ、演奏家も心穏やかに己の仕事に集中できるようになるのではないか……。
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昨日話題にしたケージの《ソナタと間奏曲》だが、昔からこれを実演で聴いてみたいとずっと思っている。が、なかなかその機会はやってこない。となると、誰か知人をそそのかして実現するしかないかも。だが、これは演奏者にとっても、他の聴き手にとっても悪くない企画のはずだと信じている。