「現代音楽」に限らず、音楽史の中ですでに定まっている作曲家や作品の評価というものがある。そうなるにはそれなりの経緯があったのは確かだろう。が、そうした評価は決して不動かつ不変ではない。たとえば、19世紀の作曲家の多くは未だにほとんど現代人には知られておらず、ごく限られた情報の中で物事の評価がなされているわけで、もっと情報量が増えれば、当然、評価のありようも変わらざるを得まい(この点については金澤攝さんが繰り返し力説しているところだ:http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/ippan/0511usinawaretaongaku.htm)。それゆえ、既存の評価体系を不変の真理とみなすことは誤っている。むしろ、「現時点ではとりあえずある程度は信じるに足るもの」くらいにとっておく方がよかろう。
また、たとえ一般に評価が高いものであっても、それをすべての人が共有しなければならないというものでもない。もちろん、日々の暮らしの中で他人と評価や価値観を共有した方が都合がよい事柄は少なくないが、少なくとも音楽などの芸術はそうではなかろう。むしろ、多様な価値観が並存する方が芸術の世界は活性化される。
というわけで、「名作曲家」や「名曲」といったものは、必要に応じて他人の評価を参照することはあっても、最終的には各人が自分で決めるべき事柄だと私は思う。それをせずに既存の評価体系を鵜呑みにすれば、(あまり好きな言い方ではないが)「自己疎外」が生じてしまうとともに、せっかくの「名曲」も自分の中では本当には響かなくなる。
ただし、そうした自分なりの評価もまた不動・不変になってしまうとつまらない。(リアルな人に限らず、過去の文物も含めての)「他者」との対話を通じ、折に触れて己のものの見方、聴き方、感じ方を更新えられるのみならず、そこに残り続けているものの意味も変わってくる。その結果もさることながら、(他者とのコミュニケーションも含む)過程も面白いはずだ(さもなくば、人が音楽についてかくも語りたがるはずもない)。
現代はインターネットによって誰しも容易に情報発信ができるので、使い方次第でこれまでにはなかったような新たな「名曲」の評価、音楽のとらえ方が形成される可能性は十分にあろう(構想に留まりなかなか執筆にかかれない著作『音楽の語り方』ではこの点も見据えて、インターネット上での「音楽の語り方」について1つの作法を提案したいと考えている)。