著者は在野の音楽研究家で近現代イタリア音楽を専門とした。この分野は当時でも手薄だったが、少なくともこの日本では今なおさほど状況は変わらない(おそらくこの天野氏の「衣鉢を継いでいる」のは金澤攝さんだろう。攝さんは実際に晩年の天野氏と交流があった。そのことは『失われた音楽――秘曲の封印を解く』(龜鳴屋、2005年:http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/ippan/0511usinawaretaongaku.htm)所収の「天野秀延先師生誕百年」という文章で述べられている。また、同書は近現代イタリア音楽についての攝さんの深くて広い知見の一端が示されている)。が、それだけに、若い研究者に挑戦してもらいたい分野である。まだ手つかずの宝がごろごろしているはずだから。
さて、その『現代イタリア音楽』では、まず近代にいたるイタリア音楽の歴史を簡単に振り返り、(大方の音楽史同様に)19世紀を停滞の時代ととらえる。そして、そこから次第に脱していく過程を描いたのち、近代におけるイタリア音楽復興の立役者たる3人の大家、イルデブランド・ピッツェッティ(1880-1968)、ジャン・フランチェスコ・マリピエロ(1882-1973)、アルフレード・カゼッラ(1883-1947)の名をあげ、彼らについての論述を中心に置く。さらに、その他の作曲家については必要最小限度の説明を加えつつ(「傍流」の大物としてレスピーギにはやや多めに紙幅が割かれてはいるが)、イタリア近現代音楽の(著者が知り得た当時としての)「趨勢」を素描し、マリピエロの3つのオラトリオについての論考で全体を締めくくる。
こうした構成は1960年当時としては、そもそもほとんど知られていなかったイタリア近現代音楽のありようを示す上では有効な方法であったろう。が、今ならばもう少し広い視野からもう少しバランスのよい記述が可能であろうし、また、そうすべきであろう。天野氏は1920年代以降の世代の「前衛」の輝かしい業績には触れていないが、そうした「その後」の展開も含めてイタリア近現代音楽を通覧するような研究は21世紀の今だからこそ可能なのではないだろうか。そして、それには本国人よりもむしろ距離を置いて客観的に物事を見られる外国人の方が適しているように思われる(かつて天野氏がそうだったように)。というわけで、奇特な若者の挑戦に大いに期待したい。