今日、西洋芸術音楽の世界では「埋もれた音楽作品」があれこれ掘り起こされており、レパートリーを大いに広げつつある。が、そうしたことが可能なのも、出版された楽譜が残されていればこそ。そして、この点で20世紀の作品に今、危機が訪れつつあるようなのだ。
いわゆる「現代音楽」で編成が大きな作品の楽譜は販売されることは少なく、多くが「貸し譜」というかたちを取っている。つまり、演奏者なり演奏会や録音の企画者なりが出版社からスコアとパート譜を演奏のためにその都度有料で借り出す(出版社の側からすれば「貸し出す」)という仕組みである。ところが、有名作品はともかく、マイナーな作品には、そうした「貸し譜」として出版社のカタログに記載されているのに、その楽譜が行方不明になっているという摩訶不思議なことが少なからず起こっているらしい。
たとえば、高橋悠治(1938-)《歌垣(カガヒ)》(1971)という作品はニューヨークのC. F. Peters社で「貸し譜」扱いだったのに、驚くべきことにその楽譜が行方不明になっていたのである(その楽譜の探索と蘇演の顛末については次を参照:https://kuroakinet.exblog.jp/27754839/)。以前このことを知ったとき、私は「それはごく特殊な例にすぎないだろう」と思った。……が、どうもそうではないようなのだ。金澤攝さんも最近、楽譜を探索する中で同様な事例にいろいろ出くわしたとか。「貸し譜」だけではない。普通に売っていた楽譜でも出版社がきちんと管理していないものがあったというから驚きだ。
「貸し譜」になった作品は少なくとも1回は演奏されているわけであり、20世紀の音楽史を織りなす貴重なドキュメントだ。が、そうしたものがまるで櫛の歯が抜けるかのようにどんどん消えて行くとすれば、これはまことにもったいない。実態を調査し、早めに手を打たないと、たぶん、取り返しがつかないことになるだろう。
それにしても、こうしたことが起こるのは、やはり西洋芸術音楽が「黄昏」時を迎えていることの1つの現れであろうか……。
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