ある楽曲の特定の演奏(録音)が気に入ってしまい、他のものを聴いても耳が受けつけなくなるとか、違和感を覚えるとかいったことはあろう。たとえば、「《ゴルトベルク変奏曲》はグールドに限る」とか、「モーツァルトのピアノ協奏曲第23番はクララ・ハスキルではないと聴いた気がしない」(これは哲学者の木田元の場合)とかいったふうに(かく言う私にも、そうした作品と演奏の組み合わせがいくつかある)。
が、そのとき聴き手は必ずしもその演奏を「作品の最良の解釈」として聴いているとは限らない。もしかしたら、「作品」よりも演奏者のパフォーマンス自体を楽しんでいるかもしれないのだ(グールドの場合にはこれは大いにありえよう。彼が何を弾こうと肯定的に評価するファンは少なからずいるはずだ)。
とはいえ、そうした場合でも、「作品」の存在は無視できない。それは魅力的なパフォーマンスの成立に何らかのかたちで与っているはずだからだ。ともあれ、「作品」と「演奏」の関係はどちらか一方が主で他方が従といった単純なものではなく、個別の演奏毎に(そして、聴き方に応じても)さまざまなかたちを取りうるものであろう。
日本ではほとんど無名のイタリアの大家、ダヴィデ・アンツァーギの名曲を:https://www.youtube.com/watch?v=GiskbWK4lkE。私が昔々、この曲を初めて聴いたのは、金澤(当時は「中村」)攝さんの演奏によってである。