2020年7月19日日曜日

少しばかりケージ批判を

 デイヴィッド・テューダー(1926-96)が弾くジョン・ケージの《易の音楽》(1951)の録音を聴いて私が感銘を受けるのはこの演奏家の見事なパフォーマンスに対してであって、ケージの作品に対してではない。なるほど、《易の音楽》のスコアはそうしたパフォーマンスを生み出すきっかけにはなっているものの、それ以上のものではない。その音は『易経』を用いて――つまり、ケージの意志を極力排するかたちで――決められているのだから。そして、だからこそ、演奏者のセンスが露骨に現れる。

 それにしても、この《易の音楽》に限らず、ケージの「偶然性」を用いて書かれた「作品」には演奏至難なものが少なくない。その中の音を多少変えたところで差し障りがない類の「音楽」であるにもかかわらず、「楽譜」として定着されてしまうと演奏家はそれに従うしなかなくなる。が、これは音楽に自由を求めるケージの思想と矛盾するのではないか? 

 ケージの思想を評価して実践するのならば、彼のやたらに高価な「楽譜」を購って(演奏会で取り上げる場合には、さらに安くはない作品の使用料を支払って)彼の「作品」を忠実に演奏するのではなく、自分で似たような流儀で作品をつくって演奏した方がよいのではないだろうか。

 ……などと批判的なことを述べたが、私は基本的にはケージの音楽を好む者だ。偶然性や不確定性を用いる以前の作品ならば喜んで楽譜やCDを購う。そして、それ以降の時期についても音楽に対する「考え方」は面白いと思っている。が、それによって生み出された「作品」に対して今はいくらか懐疑的になっている。それでも《易の音楽》や《南のエチュード集》などの作品を時折聴くのは、そこで優れたパフォーマンスを楽しめるからだ。ともあれ、このケージについてもいずれ自分なりに何か論じてみたいと思っている(モノグラフを書くだけの気力はないので、興味がある20世紀の作曲家何人かを取り上げる論集というかたちがよいのではないかと勝手に妄想している。まあ、いずれ開設予定のホームページにでも……)。