ジャン・パウル(1763-1825)はシューマンが好み、マーラーの第1交響曲の(削除された)「巨人」という標題の元になった小説を書いたドイツの作家である。昨年、必要があって彼の「フモール」論を調べるために『美学入門』(2種類の邦訳とドイツ語原典)の必要箇所を読んでみたのだが、これがまた何ともわけのわからない文章だった。面白いことがあれこれ書かれているのに、文章の「焦点」が見えないのだ。
それには読者たる私の読解力のなさもあろうが、どうもそれだけではなさそうだった。というのも、邦訳の解説やジャン・パウルの「フモール」論について種々の解説をあれこれ読んでみても、そのどれもやはりぱっとしなかった、つまり、明快にパウルの論を説明しきれていなかったからだ。やはり、パウルの文章は「わけがわからない」のである。
最近、そうしたパウルの「わけのわからなさ」を明快に説明している一節にお目にかかり、溜飲が下がった。それは碩学・関口存男(1894-1958)の「Deutsche Gründlichkeit und deutsche Umständlichkeit[ドイツ的に御念の入ったこととドイツ的くどくどしさ]」という随筆(『〈セレクション〉関口存男――ニイチェと語る』、三修社、2019年、所収)にあるものだ。関口はドイツ人が「御念の入ったこと」と「くどくどしさ」を好み、「くねくねしたことを面白がる」とした上で、その極端な一例としてジャン・パウル(・リヒター)を取り上げているのだ。
ではそのジャン・パウル評はどのようなものか。曰く、「あんなに大勢の学者が揃っていても、このJean Paul Richterを物の十頁でも完全に首肯し得る如く説明して見ろと云ったら、それの出来る学者は一人も無いだろうということですからね」(前掲書、127-8頁)とし、パウルの難しさをこう説明する。「一つのことを云うのに、決して当たり前には云わない。AからBまで行けばよい所を、必らず序でにCを通り、Dに触れ、Eを暗示し、Fを展望し、Gを匂わせてから後でないとBという結論に到達して呉れない」(同書、128頁)。あるいは、「何か一つのことを云うと、必ず同時に断わり書きが附け加えられ、但し書きがぶら下がり、厳密な規定が割り込んで来る」(同)。しかも、それが「良心的なためにそうなるのではなくて、Jean Paul Richterの場合にあっては、むしろ或種の皮肉な態度からそうなる。つまり面白がって厄介に入り組ませている。[……]『そうした込み入らせを極端にやり過ぎる』ことの妙な効果をねらったのは好いが、その効果を又『ねらい過ぎる』というわけです」(同)。なるほど、こう言われてみると、ジャン・パウルの文章のわけのわからなさの正体がよくわかる。さすが、関口存男!
さて、そんなジャン・パウルを好んだシューマンの音楽にも、何かしら「わけのわからない」ところが散見される(もちろん、そこが面白いのだが……)。これはすなわち、「類は友を呼ぶ」ということであろうか。